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北嶋南五

北嶋南五

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五城目は古くから俳句の盛んなところで、江戸時代には村役人のほとんどが俳句をたしなんでいたと言われているそうです。

そのため、長く五城目の村長や町長を務めた父の元に育った南五(本名 卯一郎)も、若いころから俳句には関心があったようですが、本格的に俳句と向き合うようになったのは法律を学ぶために東京に出てからのことでした。そのころ既に東京には、のちに俳人として名声を馳せる秋田出身の石井露月がいて、医学を学んでいました。学校こそ違うものの南五にとって同郷の露月は頼りになる存在で、誘われて正岡子規の主宰する句会に顔を出しているうち、河東碧梧桐とも親しくなり、南五は次第に俳句にのめり込んでいきます。

学業を終えた南五は五城目に戻り、生家の家業であった鋳物工場の仕事に就きました。同じ頃露月も秋田に戻っていたので、南五は露月を師と仰いで句作に励みます。露月が代表者になって発行された俳誌『俳星』にも参加しています。このころから、生地の南秋田郡五城目町にちなんで南五という号を名乗っています。

南五はまた、25歳で俳句の会「焼芋会」を立ち上げ、北嶋家の別荘春及庵で月例句会を開いていました。この会には、当時の五城目の著名な文人であった舘岡栗山や中村徳也なども参加しています。

1915年(大正4年)に父親が亡くなると家を継ぎ、同時に、農会長、町議会議員、町長などの公職にも就きます。

晩年は病に倒れ1951年(昭和26年)に70歳で亡くなりましたが、病床についていた2年の間も多くの句を残しています。