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中村徳也

中村徳也

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日本の代表的歌人正岡子規は、機関誌『アララギ』を通して日本の短歌の世界に多大な影響を与えました。アララギ派は、日本歌壇の最大勢力と言うことができます。

そのアララギの系譜で昭和初期に秋田の歌壇でも大いに活躍した三人の歌人がいました。秋田市の大黒富治、能代の越後策三、そして五城目の中村徳也です。

若いころから短歌に親しんでいた徳也は、五城目で薬店を営むかたわら、「五城目短歌会」を結成し、指導者的立場に立ちました。『アララギ』をはじめ、多くの短歌誌に作品を発表しました。

文芸の町五城目で生まれ育ったこともあり、同じ時代の近隣の文人や画人との交流も盛んでした。画家であり俳人でもあった舘岡栗山は徳也の短歌の弟子になり、逆に、俳人北嶋南五が主宰する句会「焼芋会」に徳也を誘い、南五の弟子として俳誌に句を送ることもありました。

同じく、医者で俳人であった草皆五沼とも交友があり、五沼は不治の病にかかった最晩年の徳也の主治医になって治療にあたりました。

1936年(昭和11年)、41歳で不治の病にかかり病床につくようになってからも、欠かさず病床日記をつづり、みずから薬屋でありながら自分の店で扱う薬が自分の病気に効かない皮肉を嘆きつつも、この時期に多くの短歌を書き残しました。

没後四半世紀を経て1964年(昭和39年)に『中村徳也歌集』が出版されましたが、歌集の装丁を手がけたのは、十代からの盟友であった舘岡栗山でした。