• 役場サイトへ戻る

泉谷力治

泉谷力治

ウィキペディアで見る 副読本を見る

五城目町では毎年7月に全国規模の民謡コンクール「秋田追分全国大会」が催されています。五城目町がこの大会の会場になるのは、民謡「秋田追分」を完成させ普及に努めた民謡歌手鳥井森鈴がこの町の出身であることにちなんでいます。

五城目は昔から芸能の盛んな町でした。市の立つ日は祭りのような賑わいで、そこここにある茶屋から民謡が聞こえてきたと言われています。

そんな環境の中で生まれ育った森鈴(本名 儀助)は、幼いころから民謡に夢中になるようになりました。小学校を出てからは、荷物運びの仕事で馬を引き、民謡を歌いながら道を行くと田畑で働いていた大人たちが仕事の手を休めて少年森鈴ののどに聞き入ったというエピソードも残っています。

15歳のときには農業を続けながら民謡歌手になる決意をし、地元の芸能グループに参加しています。また、民謡の歌い手としてだけではなく、漫芸(お客を笑わせるこっけいな芸)も身につけようと、地元の芸人に弟子入りしています。

大正時代には日本中で民謡「江差追分」が大流行し、これを売り物にする民謡一座が全国を巡業して回っていました。そんな一座が五城目に来たとき、森鈴が飛び入りで舞台に上がって江差追分を歌うと拍手喝采になり、これがきっかけで森鈴はこの一座に加わって全国を巡業するようになりました。

秋田にも「追分節」と呼ばれる民謡はありましたが、森鈴はこの秋田の追分と人気の江差追分をミックスして新しい追分を作り上げようと考えました。それが現在まで歌い継がれている「秋田追分」です。

大正末期から昭和初期にかけて、森鈴は後進への民謡と普及に力を入れ、秋田追分はじめ多くの民謡をレコードに吹き込んで全国的な人気民謡歌手になっていました。戦中戦後も、一座を組んで全国を慰問や巡業に回り、民謡や漫芸で大いに観衆を楽しませました。