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渡辺彦太郎

渡辺彦太郎

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地域に豊かな恵みをもたらす河川も、ひとたび大雨になるとはんらんして田畑や家屋に深刻な被害をもたらします。五城目の馬場目川もかつてはしばしば大洪水を起こす危ない川でした。

江戸時代にこの馬場目川の大改修事業に取り組んだのが渡辺彦太郎です。

彦太郎の父親は村の肝煎(現在の村長)を務めていた人物で、彦太郎もその跡を継いで1848年(嘉永元年)に30歳で肝煎になりました。それから2年後の嘉永3年6月、大雨の日が5日続き、馬場目川ははんらんして流域に深刻な被害をもたらしました。

肝煎の彦太郎は藩の役所に被害届を出し、あわせて、藩の力で川の改修工事をしてもらえるように申し出ました。

この申し出は聞き入れられ、工事の責任者として渡部斧松が送り込まれます。斧松は藩政時代の新田開発や水利土木、農業振興などに幅広い実績のあった藩の役人でした。

斧松の指導を受けて彦太郎自身も土木工事の基礎を学び、7年に及んだ工期の後半は彦太郎が藩から請け負う形で工事が進められました。藩からの工事費で不足した分は彦太郎が私財を投じて補いました。

斧松から広く農業振興の手法を学んだ彦太郎は、山間地や八郎潟の湖岸に用水路を整備して新田開発も行いました。これらの事業に投じた私財は相当の金額に上ったと言われています。

1892年(明治25年)には、貧しい人々を救済するための「陰徳講」という仕組みを作り、基金の大半を自分で拠出して、その利子で運営しました。

歌人、俳人として月休という号を名乗り、同時期の地域の文人であった石井三友、大石孫右衛門、石川理紀之助らとも交友がありました。