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渡辺銀雨

渡辺銀雨

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五城目は文芸が盛んな町です。古くから俳句や川柳をたしなむ人が大勢いました。

1936年(昭和11年)に五城目町で発足した川柳の会「すずむし吟社」は、世代交代を繰り返しながら今も会の活動が続き、発行する川柳誌『すずむし』は1976年(昭和51年)に月刊化されて多くの川柳作家に発表の場を提供しています。

定期的に川柳誌を刊行し続けている「すずむし吟社」は、全国的に見てもたいへん活発な川柳団体と言うことができます。

この「すずむし吟社」を組織し、没するまで代表を務めたのが渡辺銀雨です。

渡辺銀雨(本名 彦次郎)が川柳に傾倒したのには母親の後押しがあります。大正時代、全国的に川柳が流行し、五城目にも女性だけの川柳の会ができました。その熱心な会員の一人であった母親が書店勤めをしていた20歳の銀雨に強く川柳を勧めたのが、川柳人渡辺銀雨を生み出すきっかけになりました。

すずむし吟社の発足からまもなく、世の中は戦争に突き進む暗い時代に入り、銀雨も軍隊生活を経験しました。

戦争のために中断していた吟社の活動も戦後になって再開されましたが、戦争というものを体験したことによって銀雨の川柳にもいっそう重厚さが増したと言われています。以後は、作品で全国的な賞を獲得することもあり、秋田の代表的川柳人として全国的にも知られる存在になりました。

晩年は全国各地の川柳大会の審査員や選者を務めるなどし、後進の指導や同好者を増やすことに力を注ぎました。

五城目城の麓の四渡園にある銀雨の川柳句碑には、兵隊時代に詠んだ

「太陽に 問えば明日が あるという」

という川柳が刻まれています。

この句碑の建立の10日後に銀雨は没しました。