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小 野 源 蔵
教育評論家として活躍
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  号 花城(かじょう)
 
 

「花城」というのは、小野源蔵の若いときからの号です。

 その美しい号には「花の城を築こう」という意味がこめられています。花のさきにおうような、美しい社会を作ろうという理想と決意を、号にしたものだといいます。人びとは、「花城先生」とよぶようになりました。

 花城の名で新聞に発表した「馬の背に揺られて」という題の随筆があります。

 桃はよい花である。わけても遠景がよい。それに絹糸のような春雨が音もなく降ると、まるで花の蜃気楼を見るようである。水彩画にふさわしい。(中略)
 4年前はじめて学校を出て、男鹿の任地に行こうとて、波に雨けぶる八郎湖畔を馬の背にして──。それが人生の初旅であった。馬子の歌に胸が躍る。左手の新関(にいぜき)村は折からの桃の花盛りであった。


 これは、そのはじめの部分ですが、ペンネームにふさわしい、みずみずしくはなやかな文章です。

 明治43年(1910)4月、秋田師範学校を卒業して、男鹿市の増川(ますかわ)小学校へ教員としての理想をいだいておもむくときのことを書いてあります。源蔵は20歳でした。

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  生いたち
 
 

 花城・小野源蔵は、明治22年(1889)8月10日富津内村中津又字落合の畠山豊助(とよすけ)、モヨの二男として生まれました。畠山家は、田畑のほかに広い山林をもつ、ゆたかで家がらのよい家でしたから、源蔵はなに不自由なく育ちました。

 ところが、5歳のころ、源蔵は五城目町の畠山家に養子として出されたのです。源蔵をもらった畠山家は親せきでしたから、両親は安心して養子にやったのでした。

 そのころは、家の後つぎである長男は特別に大事にされ、それ意外の男の子どもは、よその家へ養子としてくれてやるのは、あたりまえのことでした。どんなにゆとりのある家でも、そういうしきたりになっていました。

 小さい子どものうちに養子に出されるのと、一人前に成長してから養子になるのとありますが、なにもわからない赤んぼうのときよりも、少しでも物心がついた幼いときに、かってに養子にされるのは、子どもにとってはたいへんです。

 二男や三男だからというだけで、生みの親からはなされ、知らない家で育てられることは、子どもにとっては、たまったものではありません。

 源蔵は、新しい養い親になじむことが出来ずに、いくども落合の生まれた家へにげ帰りました。つれもどしても、またにげ帰る源蔵に、五城目の畠山家ではとうとう養子にするのをあきらめ、生家へもどすことにしました。

 たった5歳の子どもが、町を通りぬけて10km余りのいなか道をにげ帰るという、つらく悲しい「旅」は、どう見てもふつうではありません。源蔵の一生にかげを落とした、異常な体験だったのではないでしょうか。そうでしたから、馬に乗って最初の小学校へ教員としておもむく旅が、特に美しく楽しいものに感じたのかも知れません。

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  そのころの小学校
 
 

 源蔵は中津又尋常小学校(今の富津内小学校)に入学しました。

 町から村まで10km余りの道を、ひとりでにげ帰った源蔵は、強い精神力をもった子どもというだけでなく、とてもかしこい子どもでした。そこで、父豊助は1年早く源蔵を小学校に入学させたのでした。

 小学校は落合にあり、尋常科だけでした。尋常科は4年で卒業になり、それで義務教育はおしまいになります。その上に4年の高等科がありますが、義務教育ではないので中津又小学校には設けてありませんでした。

 校舎は小さくて、たった1つだけの教室でした。そこで全校50人ばかりの子どもが、1年生から4年生までいっしょに授業をうけるのです。寺子屋をちょっと大きくしたようなのが、そのころのいなかの小学校でした。

 教室が2つになったのは、源蔵が卒業したあとの明治34年(1901)でした。義務教育が4年から6年になるのは、明治41年(1908)からで、このとき教室は3つにふえています。

 教室ひとつの小さな学校で、源蔵は1歳年上の子どもたちといっしょに勉強しました。そして、4年間1番をつづけました。明治32年(1899)3月に卒業しましたが、卒業生は男だけ5人でした。

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  先生になりたい
 
 

 卒業が近づいたある日、一関兼吉(いちのせきかねきち)校長が源蔵にたずねました。

「君は勉強がよくでいる。わたしは高等科にすすんでもらいたいと思っているが、将来なにになりたいかね」

「学校の先生になりたいです。」

 源蔵のこたえに、校長先生は大きくうなずきました。

「それは、いいことだ。君ならりっぱな先生になれる。」

 校長先生は、さっそく父の豊助に源蔵の希望を話しました。豊助は、家をつがない二男だから、教員になるのもいいだろうと考えました。

「おまえは、高等科に進んでもっと勉強して、学校の先生になるのだ。」

と、父にいわれ、源蔵の希望はいっそうふくらみました。

 高等科があるのは、このあたりでは五城目小学校だけです。長男の正治が入っていましたから、ふたりは町の遠縁にあずけられて、学校に通いました。

 高等科には、町の子どもだけでなく、源蔵兄弟のようにまわりの村むらの、成績のすぐれた子どもたちが集まっています。源蔵は、ひろい世界に出たいという気持ちを味わい、きびしい競争をうれしいと思いました。

 高等科の4年間を1番で過ごした源蔵は、五城目小学校の中に設けられていた南秋田郡立准教員準備場に入学しました。1年だけの準備場ですが、これを出ると師範学校の受験資格と、小学校准教員の資格が得られるのです。ここを卒業すれば、小学校に先生としてつとめることができます。

 豊助は、準備場だけで十分だと思っていました。兄の正治を大曲農学校まですすめ、ほかに子どもも多いのを考えると、これ以上は無理だと思っていました。

 源蔵は、その後五城目小学校に代用教員としてつとめるようになります。16歳のときでした。

 代用教員は「先生」とふだんはよばれていますが、本当の教員として認められてはいないのです。準備場を卒業しただけでは、准教員の資格しか与えられないからです。その身分は、不安定なものでした。

 先生の仕事ほど尊い仕事はない、と源蔵は子どもたちの顔を見るたびに思います。りっぱな先生になろうと、自分の心にちかったことはどうなるだろうと考えます。師範学校に入って、もっと勉強しなければならないという思いが、一日一日強くなって来るのでした。

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  師範学校入学
 
 

 がんこな父を説きふせた源蔵は、明治39年(1906)4月秋田師範学校本科に入学しました。

 花城の号は、師範生のときに使いはじめています。りっぱな一人前の教員を目ざして努力しているうちに、「美しい社会をつくろう」という源蔵が一生かけて追いもとめた理想も、胸のなかに育ちはじめていたということが、わかって来ます。

 「美しい社会をつくろう」という源蔵の理想は、教育が持つ大きな目あてでもあります。

 源蔵は、身長は特に高いというほどではありませんでしたが、肩幅はひろく胸の厚い青年に成長していました。そして柔道にはげみ、腕前をあげています。きれいな投げ技をみせるというのではないけれども、どっしりとかまえて負けない柔道だったといいます。

 明治43年(1910)3月、源蔵は主席で師範学校を卒業しました。そして訓導(小学校教員の資格)として増川小学校につとめました。

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  教育評論家として活躍
 
 
 明治44年(1911)、源蔵は秋田市の中通小学校に転任しました。中通小学校は、すぐれた先生がそろっているといわれる学校でしたから、若い源蔵にはいっそうはげみになりました。

 間もなく源蔵は、秋田市手形の小野節世と結婚して、姓が小野にかわりました。節世は生まれてすぐ小野家の養女になった人で、明治44年3月女子師範学校を首席で卒業し、小学校の先生をしていました。

 理想を胸に燃やしている源蔵は、その後中通小学校をやめて東京高等師範学校(後の東京教育大、今の筑波大)体操専修科に入りました。大正2年(1913)24歳の時のことです。源蔵は、家庭をぬけ出して上京したのです。

 努力家の源蔵は、大正5年(1913)春の卒業のときには、体操のほかに文科からは修身と教育のふたつの免許状まで与えられ、人びとをおどろかせました。

東大図書館のころ 山形県内の中学校(今の高校)につとめた後、大正9年(1920)東京帝国大学(今の東京大学)附属図書館司書となって、ふたたび東京の生活をはじめました。妻や子どもといっしょにくらすようになったのです。

 昭和15年(1940)51歳のとき、日本赤十字社につとめをかえ、赤十字社博物館の学芸員にもなっています。図書館司書や博物館学芸員は、そのころではめずらしい仕事でした。学校だけが教育に当たるのではなく、図書館や博物館などもこれからの教育をおしすすめていくのだ、という考えを源蔵はもっていました。そのことを、まず自分で実行したのです。

 そればかりでなく、新しい教育をすすめるという立場から、源蔵はたくさんの論文で自分の考えを発表しました。それまでのひろい研究から、教育だけでなく文学、芸術、スポーツにも深い知識をもっていましたから、教育評論家としてその名は高くなりました。

 特に『新教育論』などの著書で主張したのは、子ども自らが学ぼうとする心を育て、個性をのばすのが、ほんとうの教育であるということでした。それは理論だけでなく、学校や図書館の仕事の実際から説いているものでしたから、人びとをうなずかせる力をもっていました。

 また、全国的な読書調査を行って、その結果をもとに読書の指導をするという、新しい方法を考え出したのも源蔵でした。

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  秋田県人のために
 
 

 源蔵は、東京に住む秋田県出身者のまとめ役として、秋田県人会の幹事を熱心につとめました。そのため、源蔵の家にはいろいろな県人が訪れるようになりました。

 なかでも、先輩の源蔵をたよってくる教育の仕事をしている人が多かったので月一回源蔵の家で会合を開くようにしました。だれもがほっとしたように、秋田弁まる出しで、教育の問題を論じあるのです。この会は、「秋田教育倶楽部」となり、源蔵を指導者として長くつづけられました。

 日本児童文学会の会長滑川道夫(湯沢市出身)は、

「花城先生は、われわれ後輩の世話をよくされた。先生をたよりに上京して、就職する青年教師たちが後を断たなかった。先生が秋田人を親切に指導された功績はおおきいものがある。先生は、秋田人はたえしのんで新しい世界を耕していくのだ、といわれた。先生の信念だった」

と、いっています。

 東京にいても源蔵は、秋田県人であることをほこりに思っていました。その指導をうけたり、助けられたりした県出身者の数は数えきれないといいます。源蔵に接した人びとは、

「どっしりと落ち着いていて、ことばは多くないが、その考えは深く、あたたかな人だった。」

と、だれもがいいます。

 源蔵が亡くなって10数年たった昭和45年に、「小野花城をしのぶ会」が開かれました。たくさんの人が集まりましたが、この会の記録は「教育の先覚者・在京県人の父」と題され、源蔵のすばらしい功績が、最も短かいことばであらわされています。

秋田女子実業学校長のころ 昭和23年(1948)、戦後の秋田県教育を立て直そうという人びとの願いを受けて、源蔵は秋田に帰りました。秋田女子実業学校(後に敬愛学園から国学館高校)の校長となり、専務理事になりました。

「新しい日本は、りっぱな母親の手で築かなければならない。だから、女子の教育が大事なのです。」

と、源蔵は説いています。

 しかし、帰郷してからの源蔵は病気がちでした。昭和32年(1957)3月20日、67歳で亡くなりました。

参考資料 小野一二「教育人物誌 小野源蔵」(『教育秋田』 昭和55年10月号)