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木 村 謹 治
ゲーテ研究のドイツ文学者

 昭和60年8月、大川の国道ぞいの場所に、大きな顕彰碑がたてられました。
 碑には「ゲーテの研究 木村謹治先生 生誕の地」ときざまれています。顕彰碑の除幕式で、大川小学校の子どもたちが木村謹治が作詞した校歌をうたいました。
 謹治は大川小学校で学んだ人です。

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  雲がこわい
 
 
 木村謹治は、明治22年(1889)1月2日、大川村135番地(今の五城目町大川字東屋布)に生まれました。父は松助、母はナヲといい、男7人、女3人兄弟の3人目の子でした。

 木村家は、広い田んぼをたくさんの小作人に耕させていて、松助は村長をつとめています。白かべの大きな土蔵には、いっぱい本もしまわれていて、兄弟たちは蔵に入っては、書物を読みふけりました。学問を大切にした木村家の子どもたちは、勉強がよくできました。

 長男は家をつぎましたが、そのたの男の子どもたちは、帝国大学を出て学者や実業家になるというコースを歩んでいます。

 小さい頃の謹治は、病気はしませんでしたが、見るからにひ弱そうな色白な子でした。あまいものが好きで、お菓子をせびって母の後ろをついて歩き、いそがしい母にしかられるほどでした。

 また、謹治は「雲がこわい」といって外からにげ帰り、母にしがみついて泣いたりすることがありました。

「謹の、雲がこわいが始まった。」

と、両親は笑いましたが、内心では心配していました。

 八郎潟の岸べにある大川は、西の方の男鹿半島の山にわき出した雲が、日本海からの風に送られて、あっという間に天をとざしてしまう日があります。重く暗く、村も平野も頭上も、ふたのようにとざしてひろがる雲に、幼い謹治は不安になり、おそろしくなったのかも知れません。

 両親にしてみれば、かしこそうではあるけれども、謹治のものに感じやすいところが、気がかりでした。

 後、大学にすすんでからの謹治は、ドイツ文学の研究を一生の仕事とします。そして、文豪ゲーテの研究では、第一人者といわれる学者になりますが、雲のこわさを感じとることのできる心が、文学研究を深めたといえるかも知れません。

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  先生にあずけられる
 
 

 明治32年(1899)3月、謹治は大川小学校の尋常科を卒業しました。

 そのころの義務教育は四年の尋常科までで、それ以上は高等科に入らなければなりません。しかし、大川小学校には高等科がなかったので、謹治は大久保小学校の高等科に入りました。

 大久保小学校の大和田胤永先生にあずけられ、謹治は先生の家から学校に通うことになります。先生の家では、水くみ、板の間のふき掃除、子守りなどの手伝いをさせられ、礼儀作法をみっちり仕込まれました。

 それは、父が信頼する大和田先生に謹治の教育全部をたのんだからでした。きびしいしつけのもとで、いっそう深い勉強をさせ、わが子をきたえあげようと考えたからです。

「つけ物は、重石の重いものほどうまい。人間のしつけも同じだ。」

と、父松助はいったということです。

 しかし、両親のもとでない不自由なくくらしてきた謹治にとって、大和田家での生活はとてもつらいものでした。決して楽しいものではありませんでした。

 土曜日の午後には、笑顔でいそいそと大川の家に帰って来ました。そして、次の日の午後には、しょんぼりしたようすで出かけて行くのでした。

 謹治は、母の作ってくれた木綿のマワシトンビを着て、夕日になろうとする光の中を歩いて行きます。ワラジをはき、とぼとぼと田んぼの中の道を遠ざかっていく謹治の姿が見えなくなるまで、母は門のところに身じろぎもしないで立ちつくしていました。母の目には、いつもいっぱいの涙がたまっていました。

 母ナヲは、昭和12年(1937)12月、74歳でなくなりました。大学の研究室の人が、

「長生きされた方ですし、ご兄弟の皆さんが、そろってりっぱに成人されていますから、安心して目を閉じられたと思います。先生も、平らなお気持ちで、お見送りされたでしょう。」

と、なぐさめをいいますと、みるみる謹治の顔色が変わりました。そして

「5つや6つで、母親に死別した者は、母への印象はそれだけうすい。子どもにとっては、その方が幸せかも知れない。50までも母が健在であったら、それだけたくさんの印象や思い出がつみ重なっている。いつかは別れなければならないとわかってはいても、いざとなるとやりきれない。今も苦しいが、これからは折りにふれてどんなに母を思い出すか。悲しみは、もっともっと深くなるだろう。世間なみのことばはいらん。そっとしておいてくれ。」

と、おこったようにこたえました。

 母がなくなってから、謹治は次のような歌をよんでいます。

  ふる里の家やわびしき喜びて迎え
  たえまる母のなければ

 やさしい大きな愛情でつつんでくれた母を、謹治はいくつになっても、うやまいしたっていたのでした。

 弟雄吉(理学博士、医学博士、東京大学の教授をつとめる)は、兄謹治について、

「雲をこわがった農村の子が、文学を一生の仕事にするようになったのは、母の血をひいているからと思います。母は、物語の好きな人でした。もしまた、兄にさむらい的なところがあったとすれば、それは父に似ていたからといえるかも知れません。しかし、どちらかといえば、兄はおふくろの子だったと思います。」

と、回想記でのべています。

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  ネツというあだな
 
 

 その後、大和田先生が土崎小学校に転勤し、謹治も土崎小学校高等科に転校しました。勉強の好きだった謹治は、どちらの学校でも一番の成績でした。そして、明治35年(1902)県立秋田中学校(今の秋田高等学校)に入学しました。

 秋田中学時代の謹治は、友だちから「ネツ」というあだ名をおくられています。

 中学校に入ってから、謹治は急に体が大きくなり、骨太のがっちりした体格になりました。それまで弱々しく見えたのが想像できない、たくましい青年に成長していきました。

 ボート部員となった謹治は、毎日雄物川でのはげしい練習にあけくれ、とうとう上級生より早く選手になりました。人一倍の部の練習をしていながら、勉強も人に負けないほど熱心で、成績はトップクラスでした。そして、級長にも選ばれています。

 勉強にもスポーツにも、ひたすらに打ちこみ熱中する謹治のようすに、なかばあきれた友人たちが、尊敬の気持ちをこめて、そのものずばりの「ネツ」というあだ名をおくったのでした。

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  ドイツ文学との出あい
 
 

 5年生になってから、謹治は東京に出て慶應義塾普通部(中学校、今の高等学校)に編入し、卒業しました。

二高のころ ひたすらにはげんだ勉強のかいがあって、明治40年(1907)4月、謹治は仙台市にある第二高等学校に入学します。東京の一高、京都の三高と並び、入学試験がむずかしいといわれる二高に合格したのです。

 ふだんの成績がすぐれていたのもちろんですが、受験勉強も謹治らしく熱の入ったものだったと思われます。

「杜の都」とよばれる仙台での謹治は、まじめで健康な学生生活を送っています。

 楽しみは、松島でのボートの練習と、宮城野の自然を探るハイキングでした。その勉強ぶりもめざましいものがありました。

 そのころ二高には、青年の心を引きつけた詩集『天地有情』の詩人土井晩翠が、英語の授業をしていました。あこがれの土井先生が、謹治のクラスの英語の受け持ちでした。宮城野に出かける謹治のふところには、いつも『天地有情』が入っていました。しかし、謹治はドイツ文学に興味をもつようになり、やがてゲーテの文学にも接したと思われます。

 また、仏教にも心ひかれ、座禅に加わったりしました。

 ゲーテと仏教は、のちに謹治の一生を決定することになりました。

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  ゲーテと仏教
 
 

 明治42年(1909)4月、謹治は東京帝国大学(今の東京大学)に入学し、文学部ドイツ文学科で学ぶことになります。

「ゲーテ研究を一生の仕事にしよう。そして、りっぱな学者になるのだ。」

 そんな気持ちがふくれあがり、謹治はこれまでにもまして学問ひとすじになっていきました。

 ようやく国際的に認められるようになったそのころのわが国には、まだドイツ文学の研究に必要な本や資料が少なくて、なかなか手に入りませんでした。ですから、ひまがあると輸入した原書を売る書店や古本屋をまわって探すしかありません。謹治の楽しみは、本を探して本屋をめぐり歩くことでした。

 謹治の求める本は、どれも値段の高いものでした。父の松助は、本を買うお金がほしいという謹治のたのみに、少しも文句をいわず、いわれただけのお金を送りました。それで、なんの不自由もなく、謹治は研究ができたのでした。

 東京帝大の近くに、近角常観の開いた「求道学舎」があります。常観は、浄土真宗のお寺に生まれた人で、明治31年(1898)東京帝大哲学科を卒業しましたが、親鸞の教えを世にひろめようと考え、求道学舎を建てたのです。新しい仏教をひろめる活動によって「キリスト教の内村鑑三、仏教の近角常観」といわれるようになりました。

 求道学舎には、常観の教えを聞こうと、若い人びとが集まりました。

 仙台にいたときから、仏教に心をひかれていた謹治は、大学に近い求道学舎に通うようになりました。親鸞の教えの深さを知ろうと、常観のことばに耳をかたむけました。このときから、仏教研究もゲーテ研究とならぶ生がいの仕事となったのです。

 謹治は、大学で特待生を通しました、特待生というのは、特に成績がすぐれているため授業料が免除されるという、特別なたいぐうをうける学生のことです。そして、謹治は大正2年(1913)7月、「恩賜の銀時計」を授与されて卒業しました。

 天皇の賜る銀の時計は、成績が一番の卒業生に与えられます。これ以上の名よなことはありません。

 弟雄吉は、

「兄が大学を卒業したとき、私は小学校3年でした。私はおそるおそる手にとって、恩賜の時計なるものを見ました。大型の厚ぼったい、重いものでした。」

と、『兄の思い出』に書いています。こうして、ひとりの若いドイツ文学者が誕生したのでした。

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  ドイツ留学
 
 
 東京帝大をトップで卒業した謹治は、金沢市にある第四高等学校に、ドイツ語教師として迎えられました。金沢に住んで間もなく、謹治は由利郡亀田町(今の岩城町亀田)の加藤春代と結婚しました。

 四高につとめる間も、謹治の研究は休むことなくすすみ、ゲーテのものの見方や考え方の中に、自分の求めるものを発見していきました。研究の深まりとともに、若いドイツ文学者として謹治は学者の間で知られるようになります。

ドイツ留学中 そのようなことから、大正9年(1920)9月から12年4月まで、謹治は国の在外研究員に選ばれ、ドイツに留学することになります。ドイツではベルリン大学に入り、ゲーテの文学を中心にドイツ文学の研究にうちこみました。

 ベルリン大学には、有名な東洋学科があります。謹治は、そこで日本語を教えることになります。テキストには『啄木歌集』を選びました。短歌が好きで、歌をよんだ謹治は、ドイツの学生たちにただ日本語を教えるだけでなく、日本の心を知ってもらいたかったからでした。

 そのころのドイツは、第一次世界大戦に敗れた後で、物不足とはげしいインフレに人びとのくらしはおびやかされていました。暖房用の石炭はおろか、パンさえ満足に手に入りません。マルク紙幣は紙くずと同じで、トランクいっぱいの札束でトランクいっぱいの小麦粉が買えないありさまでした。

 マルクが安くなる一方で、戦勝国の日本の円の価値はぐんぐん上がります。そのため、謹治はたくさんの貴重な本や資料を買うことができました。ドイツのインフレは、謹治の研究に力をかす結果 になったのです。

 けれども、謹治はぜいたくなくらしをしたのではありません。つつましいくらしを守りながら、大学の友人たちを週に一度夕食にまねき、友情を育てることを忘れませんでした。

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  ドイツ文学との出あい研究ひとすじ
 
 
 ドイツ留学から帰った謹治は、大きな期待で迎えられました。その期待にそむかず、謹治は学者として大きく成長していました。

東大での講義 大正12年(1923)4月に金沢にもどった謹治は、それから一年もたたないうちに、東京帝大ドイツ文学科に助教授として迎えられます。それは、謹治がドイツ文学を研究する人びとの先頭に立つ学者のひとりだ、と認められたからです。そのとき、謹治はわずか35歳でした。

 それまで、日本ではゲーテという名前を、ギョエテ、ゴエテ、ゴーチェなどと、学者によってかってな読み方をし、まちまちでした。そのまちまちだったのが、ドイツから帰った謹治によってゲーテに落ちつきました。それほど日本での、それまでのドイツ文学の研究、中でもゲーテ研究は浅いものだったといえます。

 大学でのゲーテの文学の講義には、わが国では使われていなかった新しいテキストが用意されていました。謹治の講義は、それだけで学生たちを引きつけましたが、謹治のゲーテへの情熱がじかに伝わってくる新せんさが、学生たちの胸をうつものがあったといいます。

 謹治の教えをうけ、高名なドイツ文学者となった高橋健二は、

「ウルファウストについての最初の講義は、まったくおそろしく充実したものであった。私はその一度の講義によって、ゲーテの不思議にとらえられた。」

と、いっています。

 謹治は、おしもおされもしない学者になっても、少年のころと同じく「ネツ」とよんでもよい人でした。

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  辞典の編纂
 
 
 ドイツ文学を学ぶために、まず必要なのは辞典です。辞典は、独和辞典と和独辞典の2種類になります。ところが、わが国にはまだ和独辞典がありませんでした。

 東京帝大にうつってから、謹治は『和独大辞典』の編さんにとりかかりました。辞典の編さんは、学問の力はもちろん必要ですが大変な時間と労力がいる上に、正確さが要求される仕事です。ですから、本にするための編集の仕事に入ったのは、9年たった昭和7年(1932)の末でした。

 いざ編集ということになると、またつぎつぎに不確かなところが出てきます。どうしても、ドイツ人に教えてもらうしかありません。謹治は、大学のドイツ語教師ヤーン夫妻に協力をたのみ、わが国最初の和独辞典を、正確で信頼されるものにしようと、努力に努力を重ねました。編集は、ようやく昭和12年におわりました。

 そして、仕事をはじめてから14年めで、『和独大辞典』は出版されました。これは大へんすぐれた辞書だと評判が高く、今でもこれ以上の和独辞典は出ていないといわれています。

 このほかに、弟子の相良守峰と二人で編さんした『木村・相良 和独辞典』も有名で、ドイツ語を学ぶ人のほとんどが、今もお世話になる辞典になっています。

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  ゲーテを日本人に
 
 

 謹治は、昭和7年3月、43歳で教授になりました。8年(1933)1月、「若きゲーテ研究」という論文によって文学博士になり、間もなくドイツ文学科の主任教授となりました。

 ドイツ留学から帰った後、謹治はドイツでの新しい文学研究について、わが国のドイツ文学の研究者へ知らせることや、研究雑誌の発行などを、先頭に立ってすすめました。その上、辞典の編さんまでしたのでした。

 日本のドイツ文学研究の中心となる学者として、謹治は尊敬をあつめ、昭和12年6月には、謹治を会長にして「独逸文学会」がつくられました。

 謹治は、自分の研究を本にして毎年1、2冊出版していますが、その大部分はゲーテとその文学に関するものです。研究論文も大変な数になります。このことは、謹治の一心不乱な研究のようすを物語っています。

 博士論文「若きゲーテ研究」は、それまでの講義ノートからさらに考えを広げ深めたものでした。ノートから清書をたのまれた研究室の一人は、

「ノートの右半分のページは、木村先生らしいきちょうめんな文字で、仏教に関する書きこみで、いっぱいでした。」

と、いっています。謹治は、

弟子たちに囲まれて(東大キャンパス)「私はゲーテを日本人にしようという待望をもっている。それは成功しないかもしれない。けれども、聖徳太子や親鸞や道元などが異国の天才を日本人にして、日本の文化を高めた例がある。」

と、友人への手紙に書いています。ノートの書きこみは、謹治の研究の中心となる考えを証拠づけているように思われます。

 これまで、謹治の仏教に寄せる心は強いものがありました。おどろくほどの数の本を持っていましたが、その半分はドイツ文学の本で、もう半分は仏教に関する本でした。ゲーテと仏教が、謹治の研究の両の車輪だったといえます。

「秋田の郷里のすぐ近くの村出身の、あの有名な舞踊家石井漠が、村に帰ったとき創作舞踊をおどって見せたら、村人たちが『おれたちのささらとなんぼもちがわない』といったそうだ。漠は苦笑して私へ話してくれたよ。日本人は何をやっても、日本人の本質でやり通すしか道はないと思っている。」

と、謹治は話したそうですが、ゲーテ研究をきわめた大学者のことばとして、深い意味をもっています。

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  ゲーテ記念館
 
 

 父松助の亡くなった昭和15年(1940)の夏、大学近くの古書店で、謹治はひとりの青年と会いました。青年とは、よく古書店で顔をあわせていましたが、話したことはありませんでした。

「あなたは、このへんでよく見かけるけど、どんな本を探しているのですか。」

気になって、謹治は声をかけました。

「ゲーテの本を探しています。」

「ほう。ゲーテですか。ゲーテの本を探してどうするのですか。」

 思いがけないことばに、謹治はきいてみました。すると、おどろくようなこたえが、青年から返ってきました。

「ゲーテが好きなんです。ゲーテに関するあらゆる本を集めて、図書館をつくるのが私の夢です。」

「ゲーテの図書館をつくるというのですか。」

 腰かけていた謹治は立ち上がっていました。

「どこかの学校にもおつとめですか。」

「いいえ、自分で小さな会社をやっています。」

 書店の主人が、ふたりの間に立って、

「帝大の木村先生ですよ。」

と、青年におしえました。青年はびっくりして体を固くしました。

「きょうは用事があるので、これで失礼します。来週水曜日の午後2時ころ、大学の研究室に遊びに来ませんか。あなたのご興味のある本もいくらかあるでしょうし、ゲーテ図書館の計画も、私はうかがいたいのです。」

 謹治をおどろかせた青年は粉川忠でした。この出会いがもとになって、謹治は粉川へゲーテ文学の個人教授をすることになります。

「あなたは、細かなことはよく知っているが、本当のゲーテを知っているとはいえない。私が少し手ほどきしてあげましょう。大学では落ちつきませんから、あなたの会社でやりましょう。」

といって、その週の土曜日から粉川の工場へ、謹治は毎土曜日通いはじめました。昭和15年(1940)8月20日から20年(1945)10月まで273回、それは休むことなく、粉川ひとりのためにつづけられたのです。

 太平洋戦争がはげしくなり、アメリカ軍の空襲で東京に焼野が原がひろがっていても、つづけられたのです。空襲のあい間をぬって、粉川の工場まで通うのは、まさに命がけでしたが、謹治はいちども休みませんでした。

 ただ一円の謝礼ももらわなかったばかりか、ゲーテに関するめったに見られない本を粉川に貸して読ませました。ゲーテ図書館をつくるという粉川の、ゲーテの本に対する目を育てようという思いやりからでした。

「私の教えることは、全部あなたへ教えました。きょうでおわります。」

と、謹治がいったとき、それまでずっとたずねたいと思っていたことを、粉川はとうとう口にしました。

「先生、どうしてこれほどまでに私のような者に、ご好意をかけてくださったのですか。」

「私がゲーテ図書館をつくりたかったからです。」

 謹治は、ただそれだけしかいいませんでした。

 粉川は、謹治の夢と自分の夢を、昭和39年(1964)東京の渋谷道玄坂に「東京ゲーテ記念館」を完成させてはたしました。地上7階、地下1階の記念館には、世界一といわれる数のゲーテに関する本や資料などがおさめられました。この建物はせまくなり、昭和63年北区飛鳥山に2倍の広さのビルを新築して移っています。

 一般の人であっても、ゲーテを学ぼうという人には、謹治はなんの差別もしないで、自分の研究したことや考えを伝え、理解してもらおうとしたのでした。大学で学ばなかった粉川忠も、謹治の大切な弟子だったのです。そして、謹治の教えを受けて粉川はりっぱなゲーテ学者となったのでした。

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  その死
 
 

顕 彰 碑

 昭和20年(1945)8月太平洋戦争がおわると、民主主義がさけばれ大学の空気も変わりました。戦場にかり出された学生たちが、大学に帰って来ました。

 ドイツ文学は、戦争中ナチスドイツと関係があったという、誤った見方をする者がいて、謹治はさびしい思いをすることがありました。しかし、一言も弁解はしませんでした。

 ゲーテと同じ83歳までは生きる、といっていた謹治は、若いときにボートできたえただけあって、がっちりとした大きな体格です。めがねと口ひげの顔は、大学者という感じでした。子どものときからのあまいもの好きはつづいていて、酒も飲まず、たばこもすいませんでした。だれもが、ゲーテより長生きするだろうと思っていたのです。

 しかし、病気は謹治の体をむしばんでいました。体の不調に気づいて病床についた謹治は、わずか一週間ほどで亡くなりました。昭和23年(1948)1月13日、定年少しまえの59歳でした。


参考資料 小野一二「木村謹治」(『秋田の先覚』三 昭和45年 秋田県)
     小野一二「ゲーテ研究の世界的権威木村謹治」
          (『秋田人物風土記・続々』昭和48年 秋田県広報協会)
     阿刀田高『夜の旅人』(昭和58年 文藝春秋)
     平井 法「木村謹治」
          (『近代文学研究叢書』62 平成元年 昭和女子大学近代文化研究所)


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