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自筆のさし絵「農業の四季」のうち
石 井 三 友
ぼう大な著書
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  黒土村に生まれる
 
 

 国道285号線の大手から能代方面に通じる県道に入って、少し行くと黒土の集落になります。江戸時代は黒土村といいましたが、明治22年(1889)に浅見内村、湯ノ又村、小倉村といっしょになり、内川村をつくりました。さらに、内川村は昭和30年(1955)の町村合併で五城目町となりました。

 黒土村は、宝永2年(1705)の秋田藩の調べでは、「高」がわずかに81石8斗余りです。享保15年(1730)の藩内の村むらのことを書いた本には、「家の数16軒」と記されるような小さな村でした。

 石井長吉は、文化5年(1808)2月15日黒土村に生まれました。石井家は黒土村を開いた古い家で、代々の石井家の主人は「長左衛門」とよばれるならわしになっていましたから、長吉も家をついでからは通称の長左衛門を名のっています。長吉は、たくさんの著書を書き俳人でもありましたが、その著書や俳句には三友の号を使いました。

 長い歴史のある石井家ですが、今も残っている過去帳をめくってみると、家の主人は宝暦6年(1756)11月23日に亡くなった権太郎までわかります。それから長蔵、長太郎、万四郎とつづきますが、万四郎は三友(長吉)の父です。三友の次の代が山友の号を持つ佐吉になります。

 父の万四郎は、文化10年(1813)に妻を病気で亡くしました。小さい子どもたちがいるので、間もなく後ぞいを家に迎えました。5歳になって三友は母に世を去られるという悲しみを味わい、そして新しい母に育てられることになったのでした。

 あとになって、三友は著書の中に、

「わたしの母の生まれた所は、阿仁南沢村の鈴木吉之助の家である。」

と、書いています。阿仁南沢村は、今の北秋田郡上小阿仁村南沢で、秋田峠のトンネルをぬけ、萩形ダムへ向かう道に入ってすぐのところになる集落です。江戸時代にも峠を越えて南沢の人たちは五城目の市へやって来ていました。

 過去帳をみると、三友が「わたしの母」といっているのは、新しい母のことであることがわかります。三友にとっては、西も東もわからない幼いときから育ててくれた継母こそ、ほんとうの母だったのです。

 新しい母は、心やさしい人でした。小さい三友たちを、自分の子どもとして深い愛情をそそいで育ててくれたのでした。父は安政3年(1856)に、母は慶応2年(1866)に亡くなっています。

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  学問好き
 
 

 石井家は、代々村長に当たる肝煎などをつとめるような家ですから、子どもたちを寺子屋に通わせました。三友も10歳ごろから寺子屋で読み書きを習いました。師匠は石井久吉といい、最初は『都名所往来』を習いました。

 勉強が好きだった三友は、寺子屋に通っている中に、ひととおりの読み書きだけでは満足できなくなりました。どうにかして学問をしたいものだと思うようになったのです。

 けれども、いなかの百姓の子どもでは、そう思うだけでもたいへんなことでした。百姓の子は、村で百姓をするしかありません。学問を学びたいという希望を、無理におし殺してしまうしかありません。寺子屋の師匠は、そうした三友をあわれんで、持っている本を貸してくれました。

 そのころ、五城目のあたりの村では俳句や和歌がさかんでした。一人前の百姓になって父を助けるようになった三友は、ひとりで俳句や和歌を楽しんでいましたが、その中いつも矢立と帳面を持ち歩き、熱心に句を作るようになりました。そうなると、ひとりで作るだけではがまんできなくなり、近くの村で開かれる句会に出るようになりました。

「百姓は、だまって田を耕していればいい。金持ちの連中といっしょになって、俳句だのなんのってうかれていたら、仕事に身が入らなくなるぞ。」

と、父はこごとをいいましたが、三友の俳句熱はやみそうにありませんでした。

 あちこちの会に出ている中に、三友の作品は次第に仲間に注目されるようになりました。人びととのつきあいも広くなり、趣味の上の友人ばかりでなく、学問好きの友人もできます。三友は、そのようなつきあいの中で、師匠について学ぶ以上の、学問をしたのでした。

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  地域の記録
 
 

 三友は、たくさんの著書を残しています。その大部分は、黒土村や五城目地域についてのいろいろな記録です。

 それは、自分の見たり聞いたりしたことを、こまめに書きしるしたものです。本のページを開くと和紙に小さな文字でびっしり書かれています。筆で書かれた文字は、同じ大きさできちんとならんでいます。三友は、ただ記録好きだったばかりでなく、きちょう面な性格の人であるということがわかります。

 また、文章だけで不足だというところには、絵や図を付け加えてあります。三友は、自分だけの記録ではなく、読む人にわかってもらえるように、あとの時代の人にもわかってもらえるようにと考えて、見聞を書きとめて本にしたのです。

 三友の著書は、むかしのことを知る上で貴重な資料として高い評価を受けています。その1部は『新秋田叢書』の1冊として活字化され、昭和52年(1977)11月に出版されました。

 叢書の中で特に名高いのは、『醒者塵筺』と『秋田繁盛記』です。

 『醒者塵筺』は初編、中編、下編、陽暦録の4編でそれぞれ5冊ずつ計20冊になりますが、残っているのは18冊で、1冊平均90ページです。その1冊に、

 「わが20歳文政10年(1827)に書きはじめた」と、三友は書いていますが、記録されていることがらで年月がわかる最も古いものは、天保元年(1830)の記事です。

 それから明治10年(1877)70歳まで、この記録はつづけられます。そして、次の『秋田繁盛記』がはじまったと思われます。

 『秋田繁盛記』も4編で計15冊ですが、現在残っているのは12冊、1冊平均100ページです。これは、80歳まで書きつづけられました。

 三友はきちんとこまかな文字で書くので、どのページも原稿用紙二枚ほどの量になっています。このふたつだけでも35冊、約1710ページですから、原稿用紙にすると約6800枚をこえる計算になります。

 しかも、20歳から80歳まで、学問への興味をもちつづけ、見聞をたしかめながら書きとめるという努力をおこたらなかったのには、ただおどろくしかありません。

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  五城目市の記録
 
 

 『秋田繁盛記』のなかから、五城目市のことを書いてある部分を、今のことばになおしてしょうかいしましょう。

 羽後の国南秋田郡五十目村の市は、20里四方のまん中にたつ市場だから、たいへんにぎやかで非常な繁昌ぶりである。

 2のつく日は下町に市がたつ。米沢町は魚の市、仲町長町の2町はいろいろな村でとれるものをならべている。7のつく日は上町の番で、御蔵町が魚の市、小池町川原町の2町は四方の村むらから運ばれてきたものがならべられる。魚の種類は海と潟の両方の魚だから、いちいち書き上げられないくらいである。ハタハタが多く出るときは、魚市は1町にきめられているのに、次の町までのびたり、町まちのはずれや小路小路で売り買いするというありさまである。

 藩内には五十目のように市のたつ所が少なくないが、月に6度も日をきめた市が開かれ、しかもその歴史の長いものはどこにもない。これは、土地のわれわれがほこりにしてもよいことである。

 人びとが四方から集まりにぎわうようすは、城下の久保田をしのぐくらいである。これは、なんといっても五十目が地の利をしめているからである。

 集まった人びとは、生産の道具であるクワ、カマ、ノコギリなどの道具や打刃物、日用品、食料品をもとめる。それらを買うために農産物や林産物を市で売る。市で売られているものは、野菜、山菜などの季節のもの、駄菓子、ムシロなどのワラ工品、木炭、農具、打刃物、衣料品、魚介類など、どんなものでもある。ハタハタは北浦あたりから馬そりで運ばれ、氷がはった潟の上を渡って来て、正月近い市場を活気づける。その市を「ハタハタ市」とよぶ。

 秋のつけもの時には、「大根(でゃご)市」とよばれるほど道の両がわにつみあげられる。岡本だけでも5千本以上の大根が収穫され、市で1日に売られる大根は、1万本を下らないといわれる。

 1年中で最も盛大なのは、正月12日の「塩市」である。潟向いの村むらからは、たくさんの人びとが潟の氷の上を馬そりで渡ってやって来る。


 これは、江戸時代のおわりから明治時代のはじめにかけての五城目市の記録として、たいへん貴重なものです。そのころの市のさかんなようすが、いきいきと目に見えるように書かれています。

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  手づくり
 
 

 三友は、毎日きまった時こくに机に向かい、1枚1枚ていねいに書いていきました。

 1冊分の量になると、はじめのページに序文を書きます。次に目次をつけます。それから表紙をつけ、和とじして製本し1冊の本にしました。表紙には色をぬり、書名と巻数を書いた題せんという小さい紙をはって仕上げとなります。三友の本を手にとって見ると、実にていねいに心をこめた手づくりの本であることがわかります。

自筆のさし絵「農業の四季」のうち どんなに、自分の学問、自分の勉強、自分の見聞を、三友が大事に考えていたかが伝わって来ます。

 三友の著書の文字の形を見ると、ほ先がすり切れてちびてしまった筆で書いているのがわかります。また、自分で使う紙は自分ですいて作り、本の表紙は反故紙を裏返しにして3、4枚重ねてはり、表に色をぬってかくしました。製本だけでなく、なにからなにまで手づくりですませ、倹約につとめています。

 江戸時代の農村のくらしは、自給自足がたてまえでした。三友は、それを自分の学問や趣味にまで、徹底して実行したのでした。いや、学問や趣味だからこそ倹約を徹底しなくてはなりませんでした。百姓には、そうしたことに使うお金のゆとりはなかったのです。

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  明徳館通い
 
 

 学問や趣味を同じにする人びととのつきあいは、次第にひろくなりました。近くの村むらばかりでなく、郡内の村むらにもひろがり、藩内の旅をすることもありました。そうしたつきあいのなかで、三友は多くを学び、俳句指導者とみられるようになりました。しかし、三友はそうしたことでは少しも満足しません。知りたいこと、学ばなければならないことは、まだまだ山ほどあります。わからないことがあれが、つきとめないではいられません。

 三友は、藩の学校の明徳館の先生たちから教えてもらおうと考えました。久保田にある明徳館は、藩の武士のための学校です。村の百姓がいっても、門前ばらいをくらうのがおちです。そこで、三友は裏門から入っていって、お願いすることにしました。

 たのみにたのんで、特別に三友が質問することがらについて、教えてもらうようになりました。三友の熱心さに、明徳館の先生たちも負けてしまったのです。

 小がらな三友が、まだ朝もやのかかる道をかけるように急いでいます。

「そんなに急いで、どこまでですか。」

と、知り合いがたずねると、

「久保田までいって来ます。明徳館の先生から教えてもらうことがあるものだから。」

と、三友はこたえます。三友の明徳館通いは、久保田までの往復20里(約80キロメートル)の道を日帰りしたといいます。

 天保12年(1841)35歳のとき、そのころ「お伊勢まいり」といっていた伊勢神宮参拝の旅に、三友は出かけています。百姓の身ではお金のかかる旅は出来ませんが、「なんでも見てやろう」の三友は、諸国のひろい見聞のために、伊勢への旅をしたくてなりませんでした。

 三友の向学心を知っている明徳館の青木先生が、よい方法を考えてくれました。江戸までいく藩の役人のお供になって旅をしたら、というのです。お供になった三友は、給金をもらって江戸までいき、あとの旅の費用をかせいだのです。このときの記録は『醒者塵筺』にあります。

 80歳をこえても、三友は机に向かい筆をとることをおこたりませんでした。『山寿帳』は80歳以後の著書です。また、75歳ころから、彫刻や絵にもとりくんでいます。

 三友は、人の前では姿勢をくずしたりしませんでしたが、生まじめなだけの人というのではなく、なかなかこっけいなところもあって、人を笑わせたいといいます。

 最後まで学問する心を忘れなかった三友は、明治23年(1890)11月20日82歳で亡くなりました。三友のぼう大な著書は、町の指定有形文化財として大切にされています。


参考資料 小野一二「石井三友と『秋田繁盛記』」(『あきた』 昭和50年9月号)
     『第3期新秋田叢書』9(昭和52年・歴史図書社)

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