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築 地 俊 龍
東京六大学リーグの花形投手 |
石投げ |
築地俊龍は、明治37年(1904)3月7日、父龍明、母ヨシの長男として、馬川村(昭和17年五城目町に合併)久保字上川原にある自性院(じしょういん)というお寺に生まれました。たん生の3日後に、日露(にちろ)戦争がおきています。 はじめの名前は龍夫といいましたが、父は長男にお寺をつがせるしかないと考えるようになり、小学校卒業のころに、俊龍と名前を変えています。 俊龍は馬川小学校に入りましたが、成績は誰にも負けませんでした。そればかりでなく、ぐんぐん身長がのび、人なみすぐれた大きな体になりました。いつも元気に外で遊んでいましたから、色はまっ黒でした。 いつの間にか、俊龍は久保の「ガキ大将」にされていばっていました。しかし、いちども弱い者いじめはしませんでした。小さい子どもや弱い子を、よくかぱってやりました。
「お前は、番外だ」 と、いつも俊龍は競争の順位に入れてもらえませんでした。それは、4、5年生のときから上級生より遠くへ投げるようになったからです。6年生になると、俊龍の投げた石が、川向かいの舘越までとどくので、全力では投げられないくらいでした。 大正7年(1918)県立秋田中学校(今の秋田高校)に入学した俊龍は、たちまち運動部の上級生たちに目をつけられてしまいました。身長が180センチ近く、がんじょうな体格でまっ黒に日やけした俊龍は、どこにいても目立っていたからです。 陸上競技部から、入部をさそわれました。庭球部からも、ボート部からも、柔道部からも、部に入るようにいわれました。 野球部からも、入部をするようにと上級生たちが俊龍のところへやって来ました。 「君は、体が大きいだけでなく、腕が太い。手も大きい。君はすごい選手になれる。」 キャプテンだという5年生がいいました。 「ボールを投げてみないか。テストのつもりで、ちょっと投げてみろ。」 むりやりグランドにつれていかれて、川原の石しかにぎったことのない俊龍は、ボールをわたされました。 「かたくて重いだろう。これが、硬球(こうきゅう)というほんとうの野球のボールだ。さあ、思いっきり投げるんだ。」 ボールを手にした俊龍は、そんなにかたいとも重いとも、思いませんでした。俊龍は、2、3度ボールを手の平ではずませてから、 「川原で石投げしてたやつより、軽い。」 と、いいました。そのことばに、とりまいていた上級生たちは大笑いしましたが、俊龍の遠投力には、だれもが舌をまいてしまいました。 「たいへんな男がいるものだ。こいつは、おれたちより投げるぞ。」 「よし。君はきょうから秋中(しゅうちゅう)の野球部員だ。ピッチャーの練習をするんだ。」 キャプテンは勝手に決め、俊龍は野球部に入ることになりました。 |
秋中野球部 |
秋田県にはじめて野球が入ったのは、明治19年(1886)といわれ。ベースボールとよんでいました。 明治33年(1900)には、秋田県で日本最初の優勝カップをかけた野球大会が行われていますが、この大会に秋中チームが出場して、社会人チームに敗れていますから、それより前に秋中野球部が発足していることになります。 大正4年(1915)、第1回全国中学校野球大会(今の「夏の甲子園大会」全国高等学校野球選手権大会)に出場した秋中チームは、決勝戦まですすみ、京都二中と対戦しましたが、延長13回、2対1で、おしくも敗れています。その後、どうしても全国大会に出場できずにいました。東北大会で敗れたり、全県大会で涙を飲む年がつづいて、くやしい思いをしていたのでした。 その野球部に、すごい1年生が入ったという話は、たちまち全校にひろがりました。しかし、どんなすばらしい選手でも、はじめから優秀な選手なのではありません。きびしくはげしい練習にたえ、練習に練習を重ねて名選手になるのです。 ぬきん出た対角と遠投力の俊龍でも、それだけではまだ野球選手にはなれません。次の日から、有名な秋中の野球練習が待っていました。 そのころの野球練習は、すさまじいいものでした。キャッチボールの最初は、グラブを使わず、うなりを立てて飛んで来るボールを、「いたくない」とさけんでキャッチしたといいます。鉛(なまり)を入れて特別に重くしたグラブで守備練習をして、手足をきたえるということもしていました。グランドが暗くなり、ボールが見えなくなるまで、休みなく練習がつづけられました。 ある選手は左手を骨折しましたが、1日も練習を休めなかったそうです。ある先生は、 「授業は休んでもいいが、野球練習は絶対に休んじゃいかん。」 と、練習でつかれ切った生徒にいったという話も伝えられているくらいです。 |
全国大会へ |
俊龍が部員になってから、練習はさらにはげしさを増しました。 大正11年(1922)は、秋田中学校の創立50周年に当ります。その記念の年には、石にかじりついてでも全国大会に出場するという目標が、いつの間にかできていたのです。目標をはたすには、血の出るようなもう練習しかありません。そうしたもう練習に、俊龍の心と体は少しもたじろがず、負けませんでした。 くしくも50周年の年は、俊龍の中学最後の年でした。 大正11年8月1日から5日まで、仙台市で全国大会への出場権をかけて東北中学校野球大会が開かれました。東北地方からの出場校はただ1校です。俊龍は伊藤俊三(しゅんぞう)とバッテリーを組み、ひとりで投げぬきました。
調子を整えるいとまもなく、13日から兵庫県鳴尾球場で第8回全国大会がはじまり、優勝候補といわれていた広島商業と1回戦で対戦します。
ようやく記念の年、全国大会出場の目標をはたしましたが、関西地方のきびしい暑さに負けたナインは、1回戦とっぱができませんでした。負けずぎらいの俊龍はくやしい思いをしました。 大正13年(1924)は、甲子園球場が完成して、全国大会はそこで行われることになりました。秋中チームは、初の甲子園大会に全国大会3回目の出場をしました。立教大学の選手だった俊龍は、甲子園にかけつけ、母校チームのコーチをつとめています。このときのナインには、2年後輩の五城目出身の選手渡辺時治(ときじ)がいました。 大正10年ころから、五城目小学校では少年野球がさかんになり、チームがつくられています。 |
立教大学と函館オーシャン |
東京六大学野球リーグで、俊龍は立大の主戦投手として活躍します。そのマウンド上の勇姿は、たくさんのファンを熱狂させました。昭和2年(1927)には六大学リーグでみごとに優勝をかざりました。 昭和3年、大学を卒業した俊龍は、北海道函館の大洋漁業に入社し、ノンプロ野球の「函館オーシャン・クラブ」に入団しました。 函館オーシャンは、大洋漁業を中心に明治40年(1907)につくられた球団でしたが、俊龍の入団を待っていたように、その年の第2回都市対抗野球大会にはじめて出場しました。俊龍は、かつての早稲田大学の名捕手だった監督の久慈次郎(くじじろう)とバッテリーを組んで登場しました。この六大学を代表した黄金のバッテリーはファンを喜ばせ、函館オーシャンの名を高くしました。 函館の俊龍へ、帆奈に北海道の旭川に天才的な少年投手がいるという話が聞こえてきました。さっそく遠い旭川まで、俊龍はなんども行ってピッチングのコーチをしてやりました。その少年は、のちにプロ野球で大活躍したスタルヒン投手です。俊龍は名投手スタルヒンの生みの親ということができます。
その後は、昭和11年から8年間、曹洞宗宗務庁につとめて東京の生活を送り、昭和37年(1962)から4年間宗議会の議員となったり、五城目町の助役や町議会議員をつとめたりしました。 宗門でも、五城目町でも、すぐれた人材として俊龍に期待していたことが、こうしたことからもうかがえます。俊龍は、その期待に全力でこたえようとしました。一生、マウンドの上の精神を持ちつづけていたのです。 なくなったのは昭和47年(1972)11月13日、まだ68歳でした。 |
参考資料 『秋高百年史』(昭和48年 秋田高校同窓会) |