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矢 田 津世子
文学ひとすじ

 矢田津世子が亡くなってから40年になる昭和59年(1984)、字下タ町35番地の津世子の生家があったすぐそばに、文学碑が建てられました。
 その碑には、津世子の随筆「想い出の町五城目町」の一節が刻まれています。

秋田は私の古里である。生まれたのは市から10里あまり離れた五城目という小さな町で、いまは一日市から軌道(きどう)が通じているけれど、その頃は幌(ほろ)馬車とか箱橇(はこぞり)が何よりも贅沢な乗物とされていた。馬車の喇叭(らっぱ)が耳に入ると子どもの群はどよめきたって往還(おうかん)めがけて駈けてゆく。近づく馬車を私は毎日のように胸をどきどきさせては迎える。馬車の中に何かいいことが入っていそうな、そのような子どもらしい期待からであった。
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  五城目での8年
 
 

 津世子は、明治40年(1907)6月19日に生まれました。本名はツセといい、津世子はペンネームです。

 父の鉄三郎は秋田市の人ですが、五城目町長宮田源蔵にたのまれ、明治31年(1898)から町の助役をつとめていました。そのため、本籍も五城目町にうつしています。鉄三郎が助役になり一家をあげてうつって来たのは、五十目村から五城目町になって2年後のことでした。津世子が生まれたころは、町長は渡辺徳太郎にかわっていました。

 母のチヱは、近所の娘たちを家へ通わせ、礼儀作法や裁縫を教えていました。津世子にとっては、なんでもきいてくれるやさしい母でした。父は学校の成績にはひとつも口を出さず、通信簿を子どもたちがもっていくと、だまって受けとり神だなに上げてしまうような人でした。だから、子どもたちはなんでも母に話しました。

 母は子どもたちへ、

「上の学校へ進みたいなら、どんな学校にもいかせてあげるよ。」

と、いつもいいました。津世子には、

「女でも勉強はしっかりしなければなりません。そして、人にめいわくをかけてはいけません。」

と、さとしました。

 大正3年(1914)、津世子は五城目小学校に入学しました。鉄道は明治35年(1902)に開通していましたが、町の事情で駅は一日市(八郎潟町)に設けられてしまい、駅と町の間の4kmほどを乗合馬車が連らくしていました。乗合馬車は、テトテトとラッパをならして走っていました。

 ラッパの音は、町はずれから聞こえてきます。やがて、馬車は車の音をひびかせて新畑町の小学校の前を通り、古川町(今の紀久栄町)の津世子の家の前から下タ町へ入ります。終点は今町でした。

 津世子の随筆は、小学校1年生のころのそんな思い出を書いたものです。忘れられないふるさとのようすと、そこではぐくまれた子どもの心のみずみずしさを、思いきりなつかしんでいます。

 その後、乗合馬車は小さな機関車に引かれる軌道にかわりますが、津世子はその汽笛の音を知りません。2年生になって間もなく、父が17年間つとめた町の助役をやめて、一家は秋田市にうつり、さらに次の年の大正5年(1916)東京にうつり住んだからです。軌道が鉄道の駅と町を結んだのは、大正10年(1921)のことでした。

 津世子が五城目町に住んだのは、生まれてから小学校2年生までの、わずか8年間でした。いろいろ記おくに残っているのは、物心がついてからの4、5年のことと思われます。それでも、自分が生まれたふるさと五城目町は、津世子にとってとても大切な土地だったのです。

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  負けずぎらい
 
 

 津世子の成績は、五城目小学校では「全甲」でしたが、転校した東京の富士見小学校では、ひどい成績になってしまいました。津世子が何かいうと、教室中の子どもたちがげらげら笑います。秋田なまりがひどかったからです。東京の子どもたちは、そういう他人の弱点はようしゃしません。

 それに、東京の子どもは、津世子からみると、とても勉強が出来て、その上物知りでした。都会の子どもたちの態度に、津世子の負けん気が目をさましました。

「正しいこと、りっぱなことをいうのなら、秋田弁だってなんだって、はずかしいことはないよ。」

と、いってくれた、母のはげましもありました。

「ようし、それならりっぱな成績をとって見せよう。いなかからやって来た子どもでも、勉強では少しも負けない、というところを見せてやろう。」

と、津世子は決心しました。

 もともと力のある津世子のことですから、成績はめざましく上がり、4年生になるとトップクラスになっていました。津世子のまわりに、いつの間にか友だちが集まるようになり、いじめっ子はひとりもいなくなりました。

 そして、高等女学校(今の女子高等学校)でも、優等賞をうけて卒業しました。そのころ津世子は、色が白くすらりとした美しい娘に成長していました。

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  文学との出あい
 
 

 津世子が女学校を卒業した前の年の大正12年(1923)に、兄の不二郎は第一高等学校から東京帝国大学(今の東京大学)に入学しています。

 不二郎は妹の津世子を大変かわいがり、女学校に入ったときから、

「これを読んでみるといい。あとで感想をきかしてくれないか。」

などといって、いろいろな小説の本を与えて、読ませていました。はじめは夏目漱石などの日本の小説でしたが、女学校を出てからは、

「チェホフの作品を全部、そしてなんども読むといい。チェホフを読むのが、一番の勉強になる。」

といって、チェホフの小説をすすめました。

 不二郎が「勉強」といったのは、小説を書くための勉強のことをさしています。津世子の文章を書く才能に、はじめに気がついたのは、作文を読んだ女学校の国語の先生谷紀三郎でした。しかし、もともとは不二郎が津世子を作家にしたいと考えていたのです。計画的に小説を読ませたのも、そのためでした。

 そのような読書が、国語の谷先生に、

「すばらしい作文です。津世子さんは、将来作家になるかも知れない。」

と、いわれるようになったのだとも考えられます。

 小さなころ、矢田家に五城目小学校の柳谷先生がよく遊びに来ました。あだ名を「赤ひげ先生」といいましたが、来るたびに童話を話してくれるのです。いつの間にか、物語り好きの子どもになってしまった津世子は、赤ひげ先生の来るのをたのしみに待っていたといいます。作家になってから、赤ひげ先生の「ロビンソン・クルーソー」がとてもおもしろかった、といっています。

 津世子には、そのような文学との出あいがあり、体験があったのです。

 やがて、不二郎は、

「どうだい、ただ読んでいるだけでは、つまらないだろう。小説を書いてみたいと思わないか。」

と、いうようになりました。

 本当は、不二郎自身が作家になりたいと思っていたのですが、東京に出て来てから生活が楽でなかった矢田家のために、夢をすてなければなりませんでした。

 東京帝大に入った次の年の大正12年(1923)、関東大震災で矢田家が焼け、父の関係する会社は経営が苦しくなりました。そして大正14年(1925)には、父が亡くなってしまいます。不二郎は、一家の生活を支えるために、早く大学を出て就職しなければならなかったのです。

 作家になりたい希望をあきらめた不二郎は、才能のある妹に、自分の夢をうけついでもらおうと考えたのでした。それは、大正のおわりごろから昭和の初めにかけて、日本で女性作家が活躍しはじめたときでした。

 家計を助けなければならないこともあって、津世子は銀行につとめました。そして、夜はタイピスト学校に通います。タイプライターをうてる女の人は、すぐれた社員とみなされていたころですから、負けずぎらいの津世子は自分の職業に全力をつくそうとしていたのでした。

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  作家をめざす
 
 

 大学を出た不二郎は、生命保険会社に入社しましたが、昭和2年(1927)名古屋に転勤になりました。

「私といっしょに名古屋にいこう。そこで、みっちりと文学修行をするのだ。私が師匠になってあげよう。」

「私が作家になれるかしら。小説を書く才能なんてあるのかしら。」

「ツセは作家になれる。これまで、ずっと文学の話をしてきているけれども、ツセはすばらしい素質をもっているよ。」

「兄さんが、そういうのだから、ほんとうにしていいのね。」

「そうだ。ほんとうだよ。どうだ、名古屋へいくか。」

兄の不二郎と 不二郎のことばに、津世子は大きくうなずきました。妹思いでやさしくみちびいてくれる兄を、津世子は尊敬し信頼していました。津世子にとって、不二郎は父のようにも思われました。その兄のすすめに、ずっと前から自分は小説が書きたかったのだ、と思いました。

 津世子の作家になるために文学修行は、名古屋ではじまりました。20歳のときのことです。

 まず、女性だけの文学団体『女人芸術』に加わった津世子は、昭和5年(1930)初めての小説をこの雑誌に発表しました。さらに、この年の暮れには、新潮社の『文学時代』の懸賞小説に入選しました。これがきっかけとなって、昭和6年(1931)には『文学時代』に2度も小説を発表しました。

 どうにか作家としてのスタートをきったのですが、津世子はいっそう勉強しなければならないと思いました。この年の秋、母と兄に別れ津世子はひとりで東京にもどりました。

 東京にいると、次々に注文が来て毎月のように雑誌に津世子の作品がのります。しかし、とりあげられるのは、ごく短いコントとよばれる小説ばかりです。若い美しい女流作家という、文学そのものとは関係のない人気者にされたのも、不満でした。津世子がめざしていたのは、そんなコント作家ではなかったのです。

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  きびしい文学修行
 
 

 不二郎は、やがて本社に勤務することになり、一家はまた東京で暮らすようになりました。兄の指導が間にあわないほど、津世子は成長していました。けれども、ほんとうの小説を書けないなやみを、津世子は心にかかえ苦しんでいました。

『日歴』の同人会 津世子は文学仲間を求め、勉強を深めようと考え、同人雑誌『桜』に加わります。同人には、坂口安吾、田村泰次郎、井上友一郎らの後にりっぱな作家になる人たちがいて、よい修行の場になりました。さらに、『日歴』の同人となり、作家武田麟太郎の指導をうけるようになります。同人には高見順、大谷藤子、円地文子らがいました。

 師匠になった武田は、きびしい指導で有名でした。どんな弟子も徹底的にしごかれるのです。津世子も、原稿を持ちこむたびに、

「だめ、だめ。こんなもの小説じゃない。女学生の作文と変わらないじゃないか。お前には、目がないのか。ものごとを、よくみていない。ものごとの本質を、しっかりと見すえることが、ぜんぜんできていない。」

と、しかられつづけました。原稿は、なんども書きなおすようにいわれました。それまで美人の女流作家といわれてあまやかされ、文学修行になまぬるいところがあったのを反省した津世子の、きびしい文学への姿勢が定まったのです。津世子は、死にものぐるいになりました。

 弟子の原稿を読んでも、めったに「よし」といわない武田が、津世子を前にして、

「これは、いい。とうとう、いいものを書いたね。」

といって、笑いかけました。その「神楽坂」という作品は、矢田家が上京して名古屋にうつるまで住んだ飯田町のとなり町神楽坂を舞台としたもので、登場する人物には秋田に関係する人物が出て来ます。津世子は、自分の見たものをもとにし、この作品をなんども書きなおし、苦心に苦心を重ねて書きあげたのでした。

「神楽坂」は、『日歴』から『人脈文庫』と名前を変えた雑誌に発表されました。昭和11年(1936)、29歳のときです。そして、この作品は第3回芥川賞候補になります。ざんねんながら賞を受けることはできませんでしたが、この小説はたいへん評判になり、津世子は一人前の作家と認められたのでした。

 12月には、津世子の最初の小説集『神楽坂』が、改造社から出版され、ベストセラーになりました。そのほか、「妻の話」「桐村家の母」「やどかり」「女心拾遺」など、すぐれた作品を矢つぎ早やに発表しています。

 文学ひとすじに、骨身をけずるような努力の積みかさねが、ようやく実をむすんだのです。

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  早い死
 
 

 文学碑にその一節がきざまれた「思い出の町五城目町」を『婦人公論』に書いたのは、昭和12年(1937)、30歳のときです。このころが津世子の最も活躍した年だったのです。

 津世子は、昭和13年春から病床につくことが多くなりました。いつの間にか、肺結核におかされていたのです。それでも小説の筆はすてず、「鴻ノ巣女房」「花蔭」「茶粥の記」「蔓草」などを発表しています。また、「母と子」や「家庭教師」は映画化されました。

 なかでも、『改造』にのった「茶粥の記」は、津世子の最高の傑作といわれ、今でも「神楽坂」と並んで高く評価されています。病気によって人生を見つめることが、さらに深まり、それが津世子の書く作品ににじみでて、読む人の心をうったのです。

 「茶粥の記」は、不二郎の話をヒントにして書いたといわれていますが、主人公の郷里を、「秋田といってもずっと八郎潟寄りの五城目という小さな町」と作品に書いてあります。

 小学校2年生までしか住まなかったふるさとを、津世子は忘れられず、ほとんどの小説に、五城目や秋田のことが出て来るのです。秋田弁や秋田の食べものも出て来ます。病気と戦いながら小説を書きつづけた津世子は、幸せだった幼い日をなつかしみ、ふるさとの山や川や人びとを、どんなに思いうかべたことでしょう。

 そのころは、今のように結核にきく薬はなく、栄養をとって静かにしているという方法しかありませんでした。しかし、太平洋戦争がはげしさをまし、食料はひどく不自由になっていましたから、病気の勢いを止めることはできませんでした。

 病床から起きあがれなくなっても、津世子は胸に氷のうを当て、寝ながら原稿を書いていました。そして、力がつきたように昭和19年(1944)3月14日、36歳で亡くなりました。

 死ぬ少し前、

「ありがとう。もう、なおらないと思うわ。もしなおったら、今度は世の中のために、うんとうんとつくしたい。」

と、母チヱと不二郎にいいました。それが最期のことばでした。

 文学の上で津世子の無二の友だった大谷藤子は、

生家あと近くの文学碑「その生涯を書くために生き、そのために結婚もしなかった。まこと才能豊かな小説家で、誠実と信頼に生きた人である。彼女は、まれに見る美しい人であった。」

と、回想しています。

 津世子の文学は、最近また評価が高くなり、平成元年5月に『矢田津世子全集』が出版されました。


参考資料 小野一二「美貌と誠実の閨秀作家矢田津世子」(『秋田人物風紀・続』 昭和48年 秋田県広報協会)
     近藤富枝
『花陰の人・矢田津世子の生涯』(昭和53年 講談社)
     『矢田津世子全集』(平成元年 小沢書店)

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