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北 嶋 南 五
俳句をひろめる |
築地町児童館の近くに、ブロックのへいでまわりを囲った土地があります。ここは、北嶋家の別荘のあったところです。別荘は「春及庵(しゅんきゅうあん)」といい、北嶋南五はここで俳句の活動をつづけました。今は南五の句碑などが建っています。 |
北 嶋 家 |
北嶋夘一郎が生まれたのは、明治12年(1879)3月12日です。江戸時代がおわり、文明開化の新しい時代になって、10年あまりしかたっていないころです。世の中は、東北のかたいなかでも、はげしく動きはじめていました。
夘一郎の生まれた年の夏、秋田県内にはコレラという悪い病気がはやり、大へんな勢いで村むらにひろがりました。ばたばたと人が死に、五十目村(今の五城目町本町)では、死者をほうむるのが間にあわないくらいでした。父の孫吉は、若い村役人でしたが、はやり病いを防ぐために少しのひまもおしんで走りまわりました。 その後、孫吉は戸長(村長と同じ役目)になり、明治24年(1891)から28年までは五十目村の2代目の村長、村が五城目町になった29年(1896)からは、初代の町長になりました。また、県議会議員もつとめています。 村長になった次の年、孫吉はコレラでなくなったたくさんの村人をとむらうために、碑を高性寺の境内に建てました。 古い家がらの北嶋家に生まれ、村の人びとにしたわれ、村のためにつくす父の姿を見ながら、夘一郎は元気に育ちました。 |
俳句との出会い |
明治19年、夘一郎は五十目小学校に入学しました。2年にすすんだ20年4月から五十目尋常小学校に校名が変わり、4年で卒業になりました。 小学校を卒業してから、夘一郎は八橋農学校に入学したといわれています。この学校は、明治26年(1893)に設けられた県立秋田中学校農業専修科と思われます。学校は寺内村八橋(今の秋田市八橋)にあったので、八橋農学校とよばれ、のちに県立大曲農学校(今の大曲農業高校に)なります。 夘一郎は、新しく設けられた学校の最初の生徒のひとりになったと思われます。農学校を卒業した夘一郎は、東京に出て東京法学院(今の法政大学)にすすみました。その当時は、小学校よりも上の学校にすすむことは、大へんめずらしいことでしたから、さらに東京の学校で学ぶなど村の人びとには考えられないようなことでした。 夘一郎が東京で学生生活を送ったころは、日本の文学が西洋の考え方を取り入れて、新しい文学に変わっていく時期でした。新しい波は、小説だけでなく、わが国の独特な文学である和歌や俳句にも及んで来ていました。 新しい和歌・俳句をと、呼びかけたのはまだ若い正岡子規でした。明治28年(1895)には、子規の俳句グループは「日本派」とよばれる大きな勢力になり、30年には俳句雑誌『ホトトギス』が出されます。 夘一郎が東京に出たのは、28年、16歳のときですから、日本派が生まれた年に当ります。
医学を学ぶ露月から、法律の学校に通う夘一郎は、俳句を教えられました。五城目は江戸時代から俳句がさかんなところで、村役人は誰でも俳句をたしなみましたから、夘一郎も前から興味を持っていたのです。 露月につられて、日本派の句会に出ているうちに、碧梧桐とも仲よくなりました。若い人の多い日本派の中で夘一郎は、最もとし若い方でした。 子規のあとをつぐだろうと思われていた露月の弟分のように見られた夘一郎は、仲間から俳人として認められるようになっていきました。 |
焼 芋 会 |
夘一郎の東京での生活は、3年でおわります。北嶋家の長男として、学校を卒業すると五城目へ帰り、地主としての家の仕事や家業の鋳物工場の仕事をしなければならなかったからです。 明治32年(1899)3月、帰郷した夘一郎は、5月に19歳で結婚しました。一人前の東京の学校と出た男として、町の人びとから期待の目で見られるようになりました。 仕事の経験をつみながら、夘一郎は俳句の勉強をつづけました。『ホトトギス』を東京から取り寄せ、新しい俳句の動きにも目をこらしていました。明治32年には露月も郷里の戸米川(とめがわ)村(今の河辺郡雄和町)に帰りましたので、夘一郎は露月を師として、本気で句作の活動をしようと思いました。そして、南秋田郡五城目町の地名から南五という俳名を名のりました。 師の露月は、五城目町から遠い不便なところにいて、いつも先生に会って教えてもらうわけにはいきません。そこで、鵜川村(今の山本郡山本町)の佐々木北涯(ほくがい)からも先生になってもらいました。鵜川は、一日で往復出来る距離です。北涯は、村長は県議会議員をつとめるという人でしたから、のちに南五が政治にかかわるようになると、その点でも教えを受けることができました。 露月が代表になり、能代の島田五工(のち五空)、北涯が協力して、33年(1900)『俳星』を発行しました。俳星は東北地方の代表的俳句雑誌といわれ、今も最も古い雑誌として毎月全国の俳人から句が寄せられて発行をつづけています。この雑誌に、南五がまっ先に参加したのはいうまでもありません。 南五は、ホトトギスや俳星でたくさんの句にふれ、俳句についての子規の文章を読んで、自分の作品の欠点に気づきました。そこで、ひとりでなく町の仲間たちと勉強するのがよいと考えました。 俳句の会「焼芋会」が、25歳の南五を中心にしてはじまったのは37年秋のことです。北嶋家の別荘で、焼芋会は毎月句会を開きました。 |
春 及 庵 |
河東碧梧桐が東北地方一周の旅に出発したのは、39年(1906)8月でした。ゆっくりと各地をめぐり、北涯のところから迎えの南五たちにつれられて、五城目町にやって来たのは40年7月15日でした。 句会を開いて教えたり、三倉鼻に遊んだりして、碧梧桐は18日朝、舟で八郎潟を渡って男鹿へ向いました。この間、南五は碧梧桐を世話してたくさんのことを学びとりました。このときから、南五は俳句に自信をもてるようになり、県内の俳人たちは「五城目に南五あり」というようになりました。
碧梧桐は森山が軒先に見える別荘が気に入って南五庵とよんでいました。それから、みんな南五庵とよいうようになっていましたが、 「ここは、北に森山があり、南からは光と風が入って来る。春が早く来る場所だ春及庵の額をかかげたらよい。やがて県内の俳人が、ここをたずねるようになるだろう。」 と、露月がいって、その陽から春及庵と名づけられました。
南五の句は、季節の風景だけでなく、その中で働いている人間がよまれています。露月がいったように、県内の俳人はぞくぞくと春及庵をたずねて南五の教えをうけるようになりました。 |
町長になる |
南五が36歳の大正4年(1915)秋、父が亡くなって家を継ぎました。北嶋家の主人になると、町のいろいろな公職につかなければならなくなります。そうしたしきたりから逃れるわけにはいきません。 大正4年春に町の農会長になったのをはじめとして、6年から昭和8年まで町議会議員、7年から11年(1922)まで町の名誉助役になっています。これでは、なかなか句作をするゆとりがありません。町の人びとからたくさんの俳人が育った焼芋会を開くことも、むずかしくなってしまいました。しかし、すこしでもひまがあると、南五は手帳に句を書きつけていたそうです。 昭和5年(1930)4月51歳で、南五はみんなに推されて第11代の町長になりました。このころは、わが国だけでなく世界的に大変な不景気で、そのしわ寄せで東北地方の農村はひどいありさまでした。南五は町長として町の産業や経済を立て直すために、全力で立ち向いました。南五は、次のような句を残しています。
14年(1939)5月まで、9年間町長をつとめましたが、12年には中国との間に戦争がはじまりました。毎日のように出征して行く兵士を、町長の南五は五城目駅に見送りました。そして、戦地の兵士ひとりひとりに、家族のようす町のようすを手紙に書いてはげましています。
町内の小さな俳句の集まりにも、よろこんで出かけて指導しました。かつてのように、町には俳句を趣味にする人が多くなりました。 24年5月、南五は突然病気で倒れて、病床から離れることができず、26年(1951)4月2日70歳で死去しました。この病床の2年間にも実に多くの句を残しています。 春及庵の跡には、南五の句碑と露月・碧梧桐の句碑が並んで立っています。
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参考資料 『南五句集』(昭和30年) |