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館 岡 栗 山
郷土の風景や行事を絵に
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  絵馬をかく
 
 

「豊治、おらさ、べらぼうかいてけれ。」

「うん。」

 豊治は紙をひろげ、絵筆をにぎりました。きょうは、なん枚もたこ絵を仕上げましたが、たこ絵ではいいかせぎにはなりません。

 そう思っていたところへ、

「絵馬かいてける豊治という人、あだだすか。」

といって、男が近づいて来ました。うなずいた豊治へ、男はとなり村からやって来たといいます。

「なんとか、すぐかいてもらいたいす。板は持って来たす。」

「どんな馬こ、かけばえすか。」

 客の注文通りに、豊治はこれまでたくさんの絵馬を描いています。男もうわさを聞いて、たのみに来たのでしょう。絵馬はかい馬のために神様に納めるものですから、お礼がもらえるのです。たこ絵をかくより、ずっといいかせぎになります。えのぐも筆も買いたいと思っていたので、豊治は、一生けん命にかきました。

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  絵かきになりたい
 
 

 これは、日本画家館岡栗山(りつざん)10歳ころの話です。小さいときから絵のうまかった栗山は、友だちのたこ絵だけでなく、村の人びとからたのまれて絵馬を描いたりして、かせいでいたといいます。そのころから、栗山は絵かきになりたいと思っていました。絵をかくことが、本当に好きだったのです。

栗山の家があった高崎坊村 館岡豊治は、明治30年(1897)9月5日、馬川村高崎に生まれました。おじいさんが村長をつとめるほどの家がらでしたが、栗山が生まれたころは、豊かなくらしぶりとはいえない状態になっていました。

 小学校を出て、明治44年に秋田師範学校講習科に入学し、15歳で五城目小学校の代用教員になりました。このまま学校につとめていたら、栗山は「絵の上手な先生」などといわれて一生をおわったかも知れません。しかし、「おれには、学校の先生はむかない。自由に好きな絵をかきたい。」といって、1年ばかりで先生をやめてしまったのです。

 それから、師匠にもつかず、ひとりで絵の勉強にはげみました。けれども、独学では上達するのは困難です。

「東京さ、行かせてけれ。おれ、なんとしても絵かきになりたいす。」

「気でもくるったのか。絵かきになるなんて夢みたいなことばかりいって……。家を継いで、田さ出てまじめに働け。」

 両親は、栗山のねがいを少しも聞こうとしません。

 そんな家への不満から、町の落合病院の事務員になりました。ひまがあると画帳をふところから出して、季節の草花や花に寄って来る虫のようすを、ていねいにスケッチしている栗山を、落合医師はじっと見ていました。

 あるとき、落合さんがいいました。

「館岡くん、絵かきになりたいのかね。それとも趣味で絵をかいているのかね。」

「先生、わたしは絵が好きで、絵かきになりたいと思っています。」

「そう思っているのだったら、ちゃんと師匠について勉強しないといけないよ。」

 栗山は落合さんのことばに、うなだれてしまいました。わかっていることですが、これまでどうにもならなかったからです。

「君は見こみがある。努力したら、画家になれるだろう。応援をしてあげるよ。」

 落合さんのことばは、目の前に明るい道が開けてくるように、栗山の胸にひびいて来ました。

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  修業時代
 
 

 栗山が家出でもするみたいにして、絵の修行のために東京に出ていったのは、大正8年(1919)22歳のときです。弟子入りして絵の勉強するには、20歳ではおそいといわれていますが、栗山はかたい決心で上京したのです。

 どんなにかたい決心も、病気にはかてません。半年ばかりで、帰らなければなりませんでした。でも、それにくじけず、郷里で健康を取りもどすと、栗山は25歳になっていましたが、ふたたび上京しました。

 父は、決意のかたい栗山にあきらめて、止めようとはしませんでしたが、

「金は一文も送ってやれないからな。」

といいました。

 栗山は、下絵かきなどのアルバイトをして生活費をかせぎ、勉強にはげみました。

 そのころ、長春という号を栗山と改めています。高崎から見える森山が、クリのような形だったからだど、号の由来について話しています。きびしい修行、苦しい生活の中で、心にはいつも生まれ故郷があったのでしょう。

 一人前の画家になってふる里に錦(にしき)をかざる自分の姿を想像し、自らをはげますために、故郷の森山を表す栗山という号を決めたのかも知れません。のちに、栗山はふる里秋田を描く日本画家になります。

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  院展初入選
 
 

 大正15年(1926)、絵の勉強を深めるために、栗山は京都に移りました。洋画の勉強なら東京ですが、日本画の修行は京都の方がいいと思ったからです。京都での生活は、それまでよりずっと苦しくなりました。食うや食わずの日さえありました。

 昭和3年(1928)有名な近藤浩一路先生の画塾に入ることができました。栗山は、30歳になってはじめてりっぱな師匠についたのです。

「犬っこ祭り」 師に恵まれた栗山は、その血の出るような努力のかいもあって、8年に「日本美術院」展(略して「院展」という)に初入選しました。その作品「台温泉」は、ひなびた山峡(さんきょう)の湯治場(とうじば)の風景で、秋田に帰り時間をかけてていねいなスケッチを重ねた上で、一枚の絵にまとめあげたものです。36歳になってはじめての入選でした。決して早い画壇への登場ではありません。

 日本画家の場合は、院展に入選して絵かきの仲間とみとめられ、作品にも値段がつくようになりますが、絵が売れるわけではありません。栗山の苦しい生活はまだまだつづきます。

 1回入選しただけでは、どうということはありません。連続入選すると、実力のある画家とされるのです。休むひまなく、栗山はは新しい画題を決めて、次に出品する絵に取組みました。

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  横山大観賞にかがやく
 
 

 夢中で絵をかく毎日を送っている栗山に、大へんな難問がつきつきけられました。師匠の近藤先生が日本美術院をはなれるというのです。そうなれば、弟子もいっしょにはなれるのが普通です。でも、栗山は院展の画家として、ようやく第一歩をふみ出したばかりです。

「苦しんで苦しんで考えたのですが、わたしは先生と行動を共にはできません。美術院に残ります。」

 最初の志をつらぬいて、栗山は最後まで院展に出品しつづけました。

 師匠を失った栗山は、血の出るような努力によって院展に連続入選をはたし、仲間たちをおどろかせました。そして昭和11年(1936)に、美術院研究会員となり、次の年の研究会展では「雨後」が横山大観賞となりました。それを機会に、安田靱彦(ゆきひこ)先生の教えを受けるようになりました。さらに、14年には院友となっています。栗山は、実力のある画家となったのです。

 初入選以来、連続入選30回、43年(1968)には特待・無鑑査になりました。特待というのは、日本美術院院友の中でも、特別の待遇を受ける院友になったこと、無鑑査とは、これまで多く入選しているので院展に出品した作品は、監査をしないで展示されることをいいます。

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  郷里を描く
 
 

 戦争がおわる少し前の20年4月に、48歳の栗山は京都から五城目町に帰りました。よく年秋には、一日市町(今の八郎潟町)に移りました。

「番 楽」 郷里に住んだ栗山は、秋田の風景と行事と伝承芸能を、描きつづけます。わき目もふらず、秋田を日本画の筆で追いつづけ、たくさんのすばらしい作品を生み出しました。院展特待・無鑑査となったのも、連続入選だけでなく、郷里に住んで栗山でなければ出来ない絵の境地を見つけたからだともいえます。

 栗山は、いつも五城目市をスケッチしていましたが、市の人びとを描いた作品がたくさんあります。番楽・盆踊り・なまはげ・竿灯などの行事や芸能、森山・八郎潟・十和田湖などの風景が、栗山の絵の中で特に目を引く作品です。

栗山句碑(雀館公園) 絵のほかに力を入れたのは俳句でした。若い時に北嶋南五に教えられて俳句をはじめ、馬場目の俳人草皆五沼と句作にはげんだこともあり、俳句にそえる俳画にも筆をふるいました。雀館公園の高崎が見える広場に、栗山の句碑があります。

 短歌も若いころに五城目の歌人中村徳也と学んだことがあり、短歌会をつくっています。

 秋田県内の展覧会の審査員をつとめたり、県内の日本画家の会をつくって勉強しあったり、湖東部のニュースを集めて新聞を発行したり、栗山の活躍は絵筆だけではないひろがりを持っていました。

 昭和53年10月16日、81歳で亡くなりましたが、病床にあっても、「思いっきり大きい、踊りの絵をかきたい。何百人の群衆が踊っている、大きな大きな屏風絵をかいてみたい。」

といい、心は絵のことでいっぱいでした。


.参考資料 『栗山画談』9(昭和55年 秋田文化社)

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