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近 藤 泰 助
湖東病院の生みの親
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新町にあった病院 湖東総合病院は、五城目町付近・湖東地域ただ一つの総合病院として、人びとの医療・病気の予防・保健の仕事にとりくんでいます。人びとが、湖東総合病院をたよりにしていることは、1日の外来かん者が660人という数字に、はっきりとあらわれています。入院用ベッド数は231ですが、いつも入院かん者でふさがっています。

 この病院には、内科・小児科・外科など13の科があります。13名の医師、110名の看護婦など、全部で約240名の人びとが働いています。また、全身用X線コンピュータ断層撮影装置や電子走査超音波診断装置など、最新式の設備がととのえられています。

 こんなに、みんなからたよりにされ、利用されている病院ですが、昭和8年(1933)に五城目町や付近の町村の人びとがお金を出し合ってつくった病院だということを、知っている人はあまりいないようです。病院の必要を人びとに説き、その計画をたて、みんなの中心となって働き、それを実現させたのは近藤泰助(たいすけ)でした。

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  農民のくるしさ
 
 

 昭和のはじめころは、世界的な不景気で日本の産業は輸出がふるわず、経済は冷え切っていました。不景気のしわよせは、農村に特にひどく、東北地方では米の不作が加わって、農民は生活にくるしんでいました。

近藤家と病院のあったところ 近藤泰助の家は、五城目町でむかしからもの持ちといわれた家で、町やまわりの村むらにたくさんの土地を持っていました。近藤家は、その土地を農民にかして米をつくらせていました。

 土地の所有者を地主といい、土地を地主から借りて米などを作っている農民を小作人・小作農といいます。小作人は、土地を借りているのですから、小作料という借り賃を、収かくした米の中から地主に毎年おさめます。

 泰助は、若い時に地主の家をついでいました。

 小作をしている農民は、借りた田んぼを耕して米づくりをしているほどですから、もともとお金持ちではありません。そのころの農民は自分の田んぼを耕している自作農は、たいへん少なく、ほとんどは小作農か自小作農でした。

 まずしい小作農の人びとのことですから、土地の借り賃である小作料をおさめるのは、並みたいていではありません。小作料をおあさめられない小作農が、不景気にあるとますます多くなっていました。

 泰助は、小作料の集まりがよくないのに困っていました。地主の生活は、小作料にたよっているのですから、集まりが悪いと生活にひびいて来ます。

 小作をしている農民にたずねてみると、

「家のばばが長わずらいしていたところに、わらしが病気にかかったものだから、なんともならない。」

と、おさめられなくなった理由をいいます。

「ばばもわらしも、働き手でないから、田畑の仕事には関係ないはずだ。それは、おさめられない理由にならないだろう。」

と、泰助はしかりつけようとしました。

「だんなさん、そうではないす。家の者が医者にかかるような病気になると、医者に払うお金でみんな食べるものも食べられないようになって、小作料もおさめられなくなってしまう。」

 あい手のことばに、泰助は思わずうなってしまいました。ゆとりの少しもない農民の生活のくるしさに、気がついたからです。

 そういわれてから注意して見ると、病気しても医者にみてもらえないでいる人が、農村にも町にも多いことがわかりました。高い医療費が払えないからです。ですから、がまんして医者にいかないでいるうちに、病状がすすんでしまう例が多かったのです。医者の払いのために、生活できなくなる人も少なくありませんでした。

 「国民健康保険」などに、国民全体が入っていて、少ない負担で医療が受けられる今からは考えられないことです。

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  産業組合
 
 

 お金がなくて医者にいけないという人びとのことが、泰助の心からはなれなくなってしまいました。そういう人は、農民だけでなく、町の働く人びとにもたくさんいます。どんなに心をいためても、泰助ひとりの力では救ってやることはできません。

 ちょうどそのころ、泰助のいとこの畠山松治郎が、矢場崎に住んでいました。畠山は、少し前まで農民組合のリーダーとして活躍していましたので、いいちえを持っているかも知れないと泰助は考えました。

 泰助の話を聞いた畠山は、

「あなたが、今やっている事業を医療にもやってみたらどうだろう。」

と、こたえました。

「今やっているというのは、農業倉庫のことかね。」

「そうだ。それと同じやり方で、病院をつくったらどうだろう。」

 米を保管する農業倉庫と、病人を診察し治療する病院とは、なかなか泰助の考えの中でむすびつきませんでした。

農業倉庫 保管がうまくないため、米の品質が落ちて安く買いたたかれるのを防ぐために、町や付近の村むらの米を保管する農業倉庫を建てていました。その巨大な倉庫の建設は、泰助が中心となってすすめていたのでした。

 五城目駅に接して建てられる倉庫は、地主や自作農251名で五城目販売購買利用組合を組織し、その組合の倉庫として建設していました。

「そうすると、組合をつくって、みんなのお金を集め、それを資金にしてすすめるのだね。」

「そうだ。医療組合を組織するんだよ。」

「医療組合も産業組合になるのか。」

「そうだよ。りっぱな産業組合だ。安い料金で病人をみてやるんだ。」

 畠山の話では、県内では二か所で医療組合病院の計画がすすんでいるというのでした。

 農業倉庫を建てている販売購買組合や、自分たちの病院をつくる医療組合は、産業組合法という国の法律にもとづいて、組合員を募(つの)り資金を出し合って組織する組合でした。不景気で困っている農村で、昭和のはじめころさかんにつくられています。この組合は、太平洋戦争後は協同組合に移りました。

 最初、病院と産業組合とむずびつかなかった泰助でしたが、倉庫を建てる仕事をしているので理解は簡単でした。そして、どうにかして安い料金のみんなの病院をつくろうと、心に決めたのでした。

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  医療組合をつくる
 
 

組合に参加をよびかけるチラシ 昭和6年(1931)11月、五か町村(五城目町・馬場目村・馬川村・富津内村・内川村)連合の農業倉庫の第1号が完成、組合が開業しました。泰助はその専務理事となって、組合の仕事をすすめる責任を負うことになりました。後には組合長もつとめています。

 昭和7年になると、泰助は畠山とともに医療組合の計画をこまかにたてました。計画の説明を泰助から聞いて、最初に賛成してくれたのは五城目町長の北嶋夘一郎でした。また、はじめから専門家として、相談にのったのは町で薬店を開いていた今村久蔵でした。

 湖東部の医者のなかには、かん者が病院にとられるといって反対する人もいました。しかし、五城目町が助役の鈴木喜太郎発起人(ほっきにん)に出して協力してくれたので、医療組合を組織する準備の仕事は、予想していたより早くすすみました。

病院の許可書 7年の秋には、組合の範囲とする五城目町・一日市町・面潟村・大川村・馬川村・馬場目村・富津内村・内川村の家々に広告のチラシがくばられました。全部の戸数3,910戸、人口は22,814名の中、組合員となって資金を出したいと申しこんだ人は、2,558名にのぼりました。

 加入申込みは、それぞれの家の主人に当る人たちですから、6割をこえる家が組合員になったのです。どんなに地域の人びとが。安い料金の病院を待っていたかと思うと、泰助は一日も早く病院をつくらなければならないと、ふるい立つような気持ちになりました。

 秋田県知事から「五城目医療購買利用組合」の設立が許可されたのは、昭和8年5月15日、7月1日にはさっそく開院して診療(しんりょう)をはじめています。泰助の熱意が伝わって来るような気がします。

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  家を病院に
 
 

 医療組合病院にしたのは、廃業した新町にある医院の建物で、その向いの大きな家を借りて入院用の病室にしました。4名の医師や9名の看護婦などで仕事をはじめたのです。

 新しい病院ができるまでの3か月間に、この仮りの病院にやって来たかん者はのべ10,900名になり、たいへんないそがしさでした。

 新しい病院は、組合の少ない資金では、土地を買って建てるわけにはいきません。建物も全部新築することは無理でした。組合長になった泰助は、新町の自分の家と土地の半分を組合に使ってもらうことにしました。

 病院は、泰助の住んでいる家の半分をいろいろな部屋に仕切り、足りないところを別につけたして建てましし、仮りの病院から移りました。湖東部の町や村から、かん者は毎日病院におしかけて来ます。昭和10年度のかん者数はのべ16,000名になりました。

 昭和12年1月からは、病院の名前を湖東病院と改め、15年6月には組合を湖東医療購買利用組合連合会に組織を改め、泰助はその会長になりました。ところが、その年の8月28日、病院は火事で全部焼けてしまいました。病院といっしょの泰助の家も、あとかたもなく焼け落ちてしまいました。

 泰助には悲しんでいるいとまはありません。泰助は責任者として、一日も早くかん者のために病院を再建しなければなりません。

 安い料金で医療を行っている組合ですから、黒字ではあっても病院を建てるお金はありません。それに、この機会に近代的設備の病院にしようという計画も持ちあがりました。

「大きな病院を建てよう。私の土地を全部、病院に使ってもらうよ。」

 最初から病院事務長として、泰助を助けてきた畠山がおどきました。

「それでは、会長の家はどうするのですか。住む所がなくなります。」

「私のことは心配無用だ。焼け残った土蔵に住むことにするよ。それから、資金不足分は、私の責任で借りてでも都合しよう。」

 泰助がこうした決心をし、それを実行したのは、セツ夫人が、

「社会のためにはじめたのですから、どんなことがあっても、つづけるのが本当だと思います。」

と、はげましたからでした。

現在の病院 新しい病院は、1年後に完成しましたが、住む土地も家も失い土蔵住まいの近藤家は、その後金足村小泉潟向(今の秋田市金足)に家を建てて17年10月に移りました。

 湖東病院は、昭和23年8月15日から今の秋田県厚生農業協同組合連合会の病院となりました。泰助は26年10月30日まで、病院を取りしきっていく主管をつとめました。

 病院は43年8月に、五城目町と八郎潟町の境のところに新町から移転し、今は湖東総合病院という名前になっています。

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  町の発展につくす
 
 

 泰助は明治26年(1893)3月16日、近藤家の長男として生まれましたが、若いときから町の発展について、はっきりした意見を持って行動しています。

 五城目町は鉄道の通らない町になっていましたが、大正11年(1922)軌道線で奥羽本線に連絡するようになりました。この計画から軌道が走るまで、28歳の泰助は社長になった渡辺金之助を助けて、非常な努力をしています。そして、五城目軌道株式会社(今の秋田中央交通)ができると、専務となって会社を発展させました。

 販売購買利用組合・農業倉庫は泰助の提案と努力によるものですが、米の出荷に便利なように、駅の隣りに倉庫を建て貨物ホームをつくったのも、泰助の考えでした。

 この組合は、今は五城目農業協同組合になっています。

 町の商店や工場などのための、銀行のような金融機関として五城目信用組合(今の信用金庫)が発足したのは、昭和3年(1928)のことですが、これにも泰助は力を注いでいます。

 そのほか、泰助は町議会議員や町の助役もつとめ、町のためにつくしました。

 亡くなったのは昭和37年(1962)4月18日、69歳でした。


参考資料 『秋田県医療組合運動資料』 (昭和54年 秋田県厚生農業協同組合連合会)

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