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草 皆 五 沼
俳人の医者 |
中学生の俳人 |
俳句について五沼は大へん早じゅくでした。 大館中学校1年の明治39年(1906)1月、山崎五風の手ほどきで俳句をはじめると、あっという間に上手になり、先生をうならせるようになりました。 そのころ、大館の町には児玉北水、山崎五風など、力のある俳人が集まる桂吟社があって、なかなか俳句がさかんでした。中学校の寄宿舎では、毎月句会が開かれ、『鳳雛(ほうすう)』という俳誌まで出していました。
五沼は明治24年(1891)に山本郡浅内村(いまの能代市浅内)小川家に生まれました。 能代・山本地方も、江戸時代からなかなか俳句のさかんなところでした。能代には石井露月が指導する島田五空の俳誌『俳星』がでていました。鵜川村(いまの八竜町鵜川)には、佐々木北涯という俳人もいました。 五沼の生まれ故郷は、秋田県の近代俳句の拠点に取り囲まれた場所のように思われてきます。中学一年で、師をおどろかしたのもうなずける気がします。師の五風が加わっていた『俳星』に、やがて五沼も入り、さらに腕をみがきますが、五沼は一生『俳星』に所属しました。 |
ふたたび俳句へ |
中学校4年のとき、彼は脚気をわずらい帰郷して療養します。家の近くの沼のまわりの日課にしましたが、そのときに句を作り手帳に書きこんで勉強しています。 沼はちょうど5つありましたので、師五風の号にも通じることから五沼と俳号を変えました。 しかし、このあと五沼は、しばらく俳句からはなれなければなりませんでした。 ひとつは、東京の医学校にすすんだからです。医学の勉強に一生けん命で、自然に俳句から遠ざかってしまったのでした。 その後、大正4年(1915)に医師になり、6年(1917)には馬場目帝釈寺の草皆家の養子となって、その土地で医院を聞きました。医学校を出てからも、五沼はいろいろといそがしく、心の落ちつかないことばかりで、俳句に親しめる状態ではありませんでした。 中学生のとき、あんなに句作に打ちこみ、俳人としての将来を注目されていた五沼が、ふたたび俳句へもどって来たのは、軍隊でひとりの俳人といっしょになったからでした。 五沼は大正13年(1924)に、青森県弘前市の第52連隊に入隊しました。その連隊に、東京慈恵医学専門学校の先輩の石田三千丈がいたのです。三千丈は、能代の名のある俳人で、五沼の俳人としての成長を見守っていたひとりでした。 入隊して来た五沼が、句作を休んでいるというと、三千丈は俳句をはじめるよう強くすすめました。学校の先輩で上官でもある三千丈の指導で、五沼は能代の俳句雑誌『山本十句集』に熱心に句を送るようになりました。 |
黛(まゆずみ)吟社 |
医院のいそがしい仕事にもどるとすぐ、大正14年(1925)「黛吟社」をつくりました。自分の住んでいるところに、俳句をひろめようと考えたからでした。彼にとって、俳句は生活の中から生まれるものでした。 吟社の名「黛」は、師とあおぐ医家で子規の信頼をうけた俳人の石井露月から、いただいたものでした。
五沼の吟社には、五城目町での師となっていた北嶋南五も参加して、会員の指導に当ってくれました。そして南五の焼芋会には五沼が参加しました。石井露月と島田五空のふたりを、南五と五沼はともに師としていたこともあって、南五と五沼の親しい交わりは一生つづきました。 |
オートバイに乗った医者 |
山奥の集落にまで往診するために、悪路を大きなオートバイを走らせる五沼は、村人の信望を集めたものでした。オートバイにまたがった五沼の、飛行帽に大型の風防眼鏡、皮ジャン姿は有名で、子どもたちの人気の的でした。 彼は、新しいメカにいつも興味をもっていました。そして病人のいるところには、どこへでもオートバイで駆けつけました。 句会にもオートバイで出席しました。五沼は行動的な人で、それまでの俳人とはちがった俳人でした。 昭和39年(1964)11月11日、五沼は74歳で他界しました。1300句をおさめた遺作集『五沼句集』が、42年(1967)に出版されています。 黛吟社はいまもつづき、『黛五句集』も会員の句を集めて出されています。五沼の俳句への考え方と熱い心は、いまも生きています。 |
参考資料 『五沼句集』(昭和42年 黛吟社)
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