渡 辺 彦太郎
私財を投じた事業
  川 欠 け
 

 『五城目町史』の年表に「嘉永3年(1850)6月16日、この日から20日まで大雨、馬場目川洪水となり被害大。」とあります。

 このときの洪水で、五十目村(いまの五城目町)の朱厳院(川寺)下から新町下までの川岸が、大きくこわれました。村の中心部が400間(約720メートル)も川欠けにあったのに、人びとはおどろき、おそれました。そこで、村の3人のお金持ちが、それ以上岸がくずれこまないように、応急の工事をしました。

 五十目村の東がわから南がわにかけて、富津内川と合流して水量の多くなった馬場目川が流れています。村の外がわにそって、大きなカーブを描く川すじを、洪水によって勢いをました水流は一直線に走ろうとしますから、岸をけずってしまうのです。大水のたびに、くずれた川岸の欠け方はひどくなるばかりでした。

 村人の屋敷がけずられるばかりか、家の土台の下も、そのうち欠けこむかも知れません。そうなったら、手のうちようがありません。

  川の改修工事
 

 渡辺彦太郎は、久之助を父として文政元年(1818)5月4日に、字上町93(小池町)に生まれています。村のお金持ちのひとりである久之助は、12年間も村の肝煎(村長のような役)をつとめていました。

そのころ、川欠けのひどかった川岸 そのあとをついで、嘉永元年(1848)に彦太郎は30歳で肝煎になりました。馬場目川の大洪水は肝煎になって3年目のことです。

 若い肝煎の彦太郎は、ただちに五十目村の洪水の被害届を秋田郡奉行へ出しました。届の書類といっしょに、川欠けの普及工事を藩でしてくれるようにという願書も出しました。

 願いの書類を出しておいてから、彦太郎は奉行所に出かけていって、

「応急の工事は、私たち村の主な者たちがお金を出し合ってしました。しかし本工事を早くしないと、次に大水が出るともっと欠けこむと思います。それはわかっているのですが、本工事をするだけの力は、五十目村にはもうありません。なにとぞ、藩のお力でお願い申上げます。」

 と、郡奉行の小田内丈助に願いました。

 五十目村の願いは聞きとどけられ、「五十目村下欠けこみ改修工事」は、次の年の嘉永4年に着工となりました。

 この藩の工事は、郡方御開発取調役加勢(こうりかたごかいはつとりしらべやうかせい)という役人をしていた渡部斧松(おのまつ)が、現場の責任者となりました。

 斧松は、もとは山本郡桧山町(いまの能代市桧山)の百姓でした。力がおとろえていた秋田藩をもとのようにさかんにしようとして、新しい産業をおこしたり、開発をしたり、いろいろとつくしていました。八郎潟の湖岸を開拓して、新しい村渡部村(いまの若美町払戸渡部)をつくったのも斧松でした。

 そうした熱心な藩のための活躍がみとめられて、斧松は約性から足軽格の役人にされて、開発の係をしていたのです。

 彦太郎は、村の中の川欠け改修工事の仕事の関係で斧松と知り合いました。

 仕事の上で、彦太郎は斧松からたくさんのことを教えられ、多くのことを学びとりました。それだけでなく、百姓だった斧松が百姓のためにしようとする生き方、考え方も、彦太郎は学びとりました。このことは、彦太郎のすすむ道を決めたように思われます。

  私費を投じる
 

 川欠け改修の藩の工事は、ただくずれてしまった川岸をなおすだけではありませんでした。

 大水のときに、流れが強く当って来るのを防ぐようにしようというのが、斧松の立てた計画でした。それによると、川筋のまがりを350間(約630メートル)も掘りかえるという大工事でした。

いまの渡辺家(小池町) 工事現場で斧松のもとで働いた彦太郎は、大きな土木工事のしくみや工法まで、学びとることができました。嘉永6年(1853)から、斧松にみこまれた彦太郎は、工事の責任者をつとめるようになりました。

 さしもの難工事も、7年の長い年月をかけて、安政5年(1858)に完成しました。これによって、五十目村は洪水の害の心配がなくなりました。彦太郎が藩から請負った工事でしたが、工事費は不足で、多くの私費を投じて仕上げたのでした。

 嘉永6年は、ペリーが浦賀に来航したり、プーチャチンが長崎に来航した年です。安政5年は、幕府が日米修好通商条約を結び、「安政の大獄」がはじまった年に当ります。そういう近代の足音が聞こえて来る時代に、彦太郎は川を改修する難工事に取り組んでいたのでした。

  新田開発
 

 あるとき、彦太郎は工事完成を祈るために太平山に登り、萩形(いまの北秋田郡上小阿仁村の萩形ダムの所にあった村)に下山しました。山奥のわずか16戸の萩形は、藩の御薬園の係をしていた彦太郎が、薬草を買い集めている村でした。

 村の人びとは、訪れた彦太郎にアワもちの食事を出してもてなしてくれました。そのとき、彦太郎は山村の人びとも、米のご飯を食べるようにならなければ、と思いました。そして、さっそく工事にとりかかり、山地に用水路を通し6町歩の開田をしました。

 その後の安政5年には用水路の戸村堰の改修を手がけ、ふえた水を利用して真坂(いまの八郎潟町真坂)の湖岸に約15石の新しい田を開きました。萩形と真坂の新田開発は、川欠け改修工事を手がけているさい中に行っていたのです。

 彦太郎が改修工事や新田開発に投じたお金は、2万6千貫あまりの巨額にのぼります。藩は苗字を許し、一代だけ帶刀を許すなど彦太郎の功にむくいています。

  社会福祉の先がけ
 

 慶応4年(1868)戊辰戦争がはじまると、彦太郎は村の人びとによびかけ、お金を出して農兵隊をつくりました。負けつづけの秋田藩の手助けをしようとしたのです。気持ちは武士に負けないほどでした。

 戦いは五十目村まで及ばないでおわり、新しい明治の時代になりました。村が戦場となって、なにもかも失ってしまったとしたら、もっともっと人びとのためにつくさなければならないと彦太郎は考えました。

 村で持っている郷山へ植林をはじめたのは、ききんのときに郷山の林をきったお金で助かったことを思ったからでした。くらしに困る人たちを救う「陰徳講(いんとくこう)」をつくったのは、明治25年(1892)ですが、その名前から人を救うには表立ってするものではないという考えがわかります。基金の大部分は彦太郎が出し、その利子を使うようになっています。

 これは、いまでいう社会福祉の先がけといってもよい事業でした。

 彦太郎は月休の名で、和歌と俳句を趣味としています。石井三友、大石孫右衛門、石川理紀之助との文芸上のつき合いは深いものがありました。孫右衛門が月斎を号としたのは月休との交遊からといいます。

 五十目村は明治29年(1896)に五城目町となりましたが、それから2年後の31年6月27日、彦太郎は82歳で亡くなりました。彦太郎の子どもの綱松は初代五十目村長をつとめ、その子の金之助も五城目町長をつとめ、いまの「秋田中央交通」をはじめました。


参考資料 『渡辺彦太郎翁伝』村井良八(大正6年)

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