大 石 孫右衛門
川の改修と新田開発
  ひろいつき合い
 

 孫右衛門は、江戸時代のおわりごろから明治時代にかけて、五城目付近の俳句の指導者として名の高かった人です。号を月斎(げっさい)といいます。

 月斎が、となり村の友人である石井三友とともに、俳句の師としたのは、そのころの秋田の俳人の第一人者といわれた秋山御風でした。さらに久保田(いまの秋田市)の俳人中で指導者とされていた会田素山や石川二葉のところにも出入りして、俳句を学んでいます。その熱心さには、おどろいてしまいます。

 五城目付近の俳人や歌人とのつき合いも、ひろい人でした。どんな句会にも、よばれると出かけていったそうです。

 この地域の神社やお寺には、奉納した俳句や和歌の額がかかげられています。その額に、つき合いのあった人びとの名前といっしょに、月斎の名前もよく見られます。俳句のつき合いのひろさが、よくわかります。

  芭蕉の句碑
 

芭蕉の句碑 住んでいた下山内村(いまの五城目町下山内)と五十目村(いまの五城目町の本町地域)との境めの道のかたわらに、大きな句碑がたっています。碑の正面には、芭蕉の句がほられています。碑をたてたのは孫右衛門ですから、月祭の本当の俳句の師はずっとまえに亡くなっている芭蕉で、芭蕉がすすめたような句を作ろうと考えていたのではないでしょうか。

 分厚い碑の左右のわきには、月斎の句と黒土村の石井三友の句がほられています。三友は学問好きで、よく久保田の先生たちのところへ出入りしていますが、久保田の往復で孫右衛門といっしょになることも、多かったのでしょう。それに、三友は俳句好きでしたから、句会のたびに同席したと思われます。

 芭蕉句碑に、それぞれの句をきざみこむほどに、月斎と三友は親密な句友だったのです。それだけでなく、三友は年下の孫右衛門からいろいろと教えられるところもあったらしく、三友は『御恩頂戴備忘集』という1冊を書いています。

 孫右衛門と三友は、おたがいに村の肝煎(村長の役)としても助け合っています。

  孫右衛門の名をつぐ
 

 孫右衛門は、天保5年(1834)2月5日に浅見内村(いまの五城目町浅見内)松橋藤右衛門の4男として生まれました。名は得三郎といいました。

 21歳のとき、大石家の養子となりやがて代々名乗っている孫右衛門に名を変えます。また、大石家は代々下山内村の肝煎をつとめる家でしたので、家をついだ孫右衛門も村の肝煎になりました。

 孫右衛門の生まれた年は、天保4年の「天保巳年のけかじ」とよばれる、大ききんの次の年で、凶作のために死者が多く出た年でした。社会不安のはげしい時期でした。そういう星の下に生まれた、孫右衛門の進む道筋が自然に見えて来るような気がします。

  川の流れ
 

 そのころ、富津内川は下山内村の中を、大きくうねりながら流れていました。

 広ヶ野の台地の東はずれのあたりから、中島集落の近くまで、川はまがりこんでいました。流路は、庄屋渕や鶴コ渕という深いよどみをつくって、流れを悪くしています。

 大雨が降って、洪水になると流れが悪いので、流路のまがったところの水位が上がって、田畑が濁流にのみこまれることは、しばしばです。そればかりか、川岸がこわれて、土地が流れの中に欠けこんでしまいました。よい耕地が失われてしまうのです。

 このような洪水の害を防ぐには、川の流れを直線にして、よどみをなくして流れをよくするしかありません。そこで、川すじ掘りかえ工事を、文化年間(1810年ころ)、文政年間(1825年ころ)、天保年間(1835年ころ)と、なんども行いましたが、うまくいきませんでした。

 肝煎になった孫右衛門は、堀りかえ工事をする決心をしました。

 村の中の川欠けは、420間(約760メートル)にも達していて、このままでは下山内村の将来にもかかわることになる、と考えたからです。工事が成功すると、川欠けが防がれるだけでなく、新しい土地も生まれるという利益もあります。ですから、この工事は村のためにどうしてもやりとげなければなりません。

  堀りかえ工事
 

 高畠という広ヶ野から突き出た高さ10メートルの丘を掘り抜き、庄屋渕まで流路を直線化するのが、孫右衛門の考えた計画でした。

 村人のだれもが、できるはずがないといって反対しました。これまでの工事が全部失敗しているのですから、村人の反対も無理がありません。

下山内地区を流れる富津内川 それに対して、孫右衛門は「愚公、山を移す」という中国に伝えられる話をして、10年でも20年でもかけて、やりとげるつもりだとこたえました。孫右衛門のかたい決意をきいて、村の人びとは協力を約束しました。

 工事をはじめたのは、万延元年(1860)ころといわれています。次の明治時代まで、もう10年もない、というときです。

 予想以上の難工事でしたが、10年あまりの年月を掛けて明治6年(1873)10月にとうとう完成しました。これは、孫右衛門のねばり強い努力だけでなく、私財まで投じて工事を続けたことや、岩石をうちくだく工法の工夫などがあって、成功にこぎつけたのでした。

 この富津内川流路の直線化で、川欠けによる本田の流矢と五十町歩が水びたしになる被害が防がれるようになりました。また、古川のあとに五町歩あまりの新しい水田も開くことができました。

 いまの下山内と上山内の間の中島の国道のあたりが、昔の鶴コ渕だったところです。国道の南側一体の美田は、そのときに開田された場所です。

 孫右衛門は、その後小倉ヨシロ坂と蟹場沢に、500間(約900メートル)あまりの新道も開いています。この工事も、すべて私財によるものでした。

  村長をつとめる
 

 孫右衛門が肝煎をつとめているうちに時代が変わり、明治4年(1871)に秋田県がおかれ、11年(1878)には村に戸長をおくきまりになりました。

 堀りかえ工事に一生けん命だった時期と時代の変わり目とがいっしょになっていますが、工事完成の6年には、孫右衛門は下山内村惣大になり、それから戸長をつとめています。

 明治22年(1889)に富津内村が発足しましたが、孫右衛門はみんなに推されて、初代の村長となりました。2代目村長は、息子の喜代治がつとめています。

孫右衛門をたたえる碑 隠居になって、ゆうゆうと俳句を楽しんだ月斎の孫右衛門は、明治36年(1903)12月2日、70歳で死去しました。

 大石家には、64歳の時の孫右衛門の肖像画が残されています。作者は久保田の画人で孫右衛門の知人萩原白銀斎勝章です。孫右衛門をたたえる文章を書いているのは、友人の石川理紀之助です。

 紋付羽織に袴で、やや背を丸めておだやかに座っていますが、その意志的な表情が印象的です。そこには、明治という新しい時代を地域の指導者・社会事業家として生き抜いた人らしい空気がただよっています。

 昭和18年(1942)、村は中島八幡神社の境内に孫右衛門の功績をたたえる碑をたてました。


参考資料 『御恩頂載備忘集』石井三友

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