鳥 井 森 鈴
『秋田追分』の生みの親
「秋田追分」全国大会が、たくさんの歌い手を会場いっぱいの聴衆を集めて、毎年五城目町で行われています。さかんな大会のようすを、秋田追分の生みの親である鳥井森鈴が見たなら、どんなによろこぶでしょう。
  民謡好きの子ども
 

 鳥井儀助(ぎすけ)のちの森鈴は、明治32年(1899)3月18日、馬川村上樋口字切通(岩野)の農家に生まれました。

 儀助が馬川小学校に入ったころの五城目町は、芸能のさかんなにぎやかな町で、佐藤久太一座がありました。一座の佐藤スワや沢石キサは、人気のある民謡歌手でした。五城目町の「市」は、掛け茶屋が45か所もあったりして、お祭りのように人手があってにぎやかなものでした。市では民謡の歌い手が流していて、かせぎ場になっていました。市にいくと、芸人たちの歌う秋田の民謡ばかりか、津軽の民謡も聞くことができたのです。

 子どもの儀助は、いつの間にか民謡が好きになっていました。市の日は学校から急いで帰ると、芸人たちの歌が聞きたくて町へいくようになりました。

 歌い手の後について歩いて、小声でいっしょに歌っていると、

「おや、このわらし、歌こ上手だごど。おめえ、歌こ好きだが。」

 と、いわれることもありました。そんなときは、儀助はにこにこして、

「うん。歌こ好きだ。」

 と、こたえました。そうこたえるたびに、儀助は「たくさんの人の前で、民謡を歌ってみたいものだ。」と思いました。

 たくさんの聴衆から、大きなはく手をうけている、舞台の上の自分を想像していました。

  馬といっしょに歌う
 

 小学校を卒業した儀助は、家の農業を手伝い、駄賃つけの仕事があると、家の馬をひいて荷物運びにでかけました。

 馬のたづなを手に、村を過ぎると道の両側にひろがる田や畑にひびけとばかりに、儀助は声を張りあげ胸の底から歌って歩きました。その歌をだまって聞いていたのは、いっしょの馬でした。いや、そうではありません。田畑で働く人びとが、聞いていたのです。働く手を休め、腰をのばして、少年の儀助の民謡を聞いてくれていたのでした。

 儀助の美しいのびのある声は、風景にひびき渡って、農民の歌である民謡にふさわしいものに人びとには思われました。

 民謡歌手として、なによりも大切なのは、はりがあってよくのびる声といわれていますが、そうした声を儀助は生まれつき持っていました。身体は小さい方でしたが力が強く、若者たちの草相撲でいつも活躍していました。それだけに分厚い胸で、だれにも負けない肺活量をもっていました。いつまでも楽々とつづく声に、人びとはおどろいたものでした。

  民謡歌手になりたい
 

 大正3年(1914)15歳になった儀助は、民謡の歌手になろうと心に決めました。

 農業は家の仕事ですから、それを止める気はありません。祖先からはげんでつづけて来た農業は、儀助にとって大事な仕事で、それをついでいこうと思っています。

 しかし一方では、好きな民謡で人気者になり、人びとを楽しませ、しかもお金もかせげたらどんなにいいだろう、と少年の夢がふくらんで来るのでした。

 民謡には、自信があります。

日本民謡協会年次大会の優勝カップ 儀助は、民謡のけいこをするために、五城目の知りあいの芸能のグループに近づき、いっしょに歌いはじめました。

 若い儀助にとって心強かったのは、鳥井家の本家の鳥井与四郎と組んだことです。芸名を如月(じょげつ)という与四郎は、三味線がとくいでした。如月の伴奏で儀助の美声は、いっそうひびき、「ぎすけー!」と声がかかるほど、町で人気が高くなりました。

 まるい子どものような顔の儀助が、おとなも顔負けの歌上手なのに、人びとはおどろいたり感心したりしたのです。

 けれども、舞台に立つ芸人になるには、勉強することがたくさんあるのに、儀助は気がついていました。そこで、内川村の二代目秋田五郎から民謡歌手にはない芸を学びました。こうして幅広い芸を身につけたことが、のちに鳥井森鈴となる、人びとをよろこばせる芸能人をつくっていったのです。

  追 分 節
 

 17歳になった儀助は、秋田民謡では一番むずかしいといわれた追分節を、正しく歌えるようになりたいと思いました。

 「市」の芸人の歌を聞いて、自然におぼえた追分節でしたから、正確さには自信がありませんでした。そのころは、「追分をちゃんと歌えたら一人前だ。」と歌い手たちは、いっていたものでした。儀助は、ひとつの決心をして追分節を勉強しようとしたのです。

 追分節は、信濃の国(長野県)の宿場追分宿で歌われた馬子歌で、悲しみをおびた声を長く長く引いて歌う民謡です。この歌い方のむずかしい「信濃追分」は、特に日本海側の各地に伝わり、北海道の「江差追分」などが有名になっていました。

「おれさ、追分、教えてくれねべが。」

 そういわれて、沢石キサは儀助の顔をじっと見ました。キサは、子どものときから熱心に自分の歌を聞き、小声でいっしょに歌っているのを知っていました。また、儀助の人気が上がっているのも知っていました。

「おや、おや。このおれから追分を習いたいて。」

 キサは、少しおどろいたふりをしました。

「んだ。おれの追分は聞きおぼえで、自信を持って歌えねえ。しっかりと歌えるようになりたいす。なんとか、教えてもらいたい。たのむす。」

「おめえは、いい声してるし、息もよくつづくから、りっぱな歌い手になるよ。なんといったって、一生けん命だから。よし、教えてやるよ。」

 自分がたのまれたことに、キサはうれしくなっていました。佐藤久太一座の中でも、キサは年上になっています。年齢を考えると、若い儀助が、自分の後継ぎのように思われて来るのでした。

 儀助がキサから習った追分節は「在郷(じゃんご)追分」です。

「在郷追分」の節まわしは、歌の中で「あん、あん、ああん」と無理だと思われるくらいにユリをきかせ引きのばして歌うので、「あんあん節」などともよばれていました。

 歌い方は、たいへんむずかしく、引きのばせるだけ引きのばすために、息つぎに苦労する歌いにくい民謡でした。難曲のわりには、「在郷追分」つまり「いなかの追分」と、さげすんだよばれ方をしていたのです。

 尺八の伴奏までつけて熱心に教えるキサ、熱中する儀助、めぐまれた才能に、ぐんぐんのびる若い時期でもあったので、たちまち儀助は自分のものにしてしまいました。

  秋田追分
 

 五城目町の古川町のかどに、芝居小屋の「五城座」がありました。ここには、民謡一座がやって来ては人びとの人気を集めていました。儀助も民謡一座が来るたびに、聞きに通いました。

 ほかの聴衆とちがって、儀助は歌の勉強に通ったのです。舞台で歌うのを聞いていると、やっぱり職業歌手だと感心する人もあれば、これなら自分の方が上手かも知れないと思ったりする人もいました。

 大正8年(1919)に江差追分が流行して、五城座に江差追分を売りものにしてやって来る一座もありました。

 三浦為七郎一座がやって来たとき、聴衆から飛び入りで江差追分を舞台で歌わせるというのでした。

 まわりの人びとから、

「儀助、飛び入りせ。」

「飛び入りすれ。おめえの方が、連中よりうまいぞ。」

 などと声がかかりました。そのうちに、勝手にさけんだ人がいたのです。

「飛び入り、鳥井儀助。」

 その大きな声よりも、大きなはく手が起こりました。そうなると、もう舞台に上がって歌うしかありません。

 水を打ったように、静かに耳をすましていた場内は、歌いおわると割れんばかりのはく手にかわりました。あちこちから声がかかりました。20歳の儀助は、大きな自信を得たのでした。

 大正10年(1921)になると、江差追分は全国で流行しレコードもよく売れていました。この年も、儀助は五城座で飛び入りして江差追分を歌いましたが、それがきっかけで宮野カネ子一座に加わることになります。

 森山の鈴虫のように美しい声だというので、「森鈴(しんれい)」の芸名で民謡歌手として出発したのです。22歳になってのデビューは、歌手としてはむしろ遅い出発でした。けれども、職業歌手になるまえから、名前はみんなに知れていましたから、各地を巡業すると森鈴の人気は高くなる一方でした。

初代若乃花からおくられたテーブルかけ 民謡歌手としてスターの道を上りはじめた森鈴には、もっと大きな目標があったのです。

 それは、追分流行のときに新しい秋田の追分をつくることと、聴衆を笑わせ楽しませる芸をつくり出すことのふたつでした。

 苦心の末、森鈴は秋田地方の在郷追分などに、江差追分の上品な節まわしを取り入れるなどして、「秋田追分」をつくりました。秋田の四季や秋田の女性の愛と悲しみを歌詞にした、あかぬけた秋田追分は、発表されるとたちまち大きな話題になりました。

 いったん、森鈴が秋田追分を歌い出すと、聴衆のなかには、ほおを流れる涙もぬぐわず聞き入る人が多かったといいます。

 ファンが集まって新しくなった五城座で森鈴会をつくったのが、大正13年(1924)秋、森鈴が25歳のときですが、この会はその後県内各地にできました。

  レコード吹きこみ
 

 大正15年(1926)3月のある日、田んぼにいた森鈴は、近づいて来る人力車を見ました。人力車は、すすんで行き森鈴の家の前に止まりました。かけつけた森鈴の目の前に、車からおりたのは後藤桃水(とうすい)でした。

 桃水は民謡研究家として有名で、そのころは日本民謡協会長をつとめていました。その会長が、森鈴にわざわざ会いに来たのです。

 おだやかな口調で、桃水はいいました。

「きょ年、秋田の民謡大会で、わたしが注文して秋田追分を歌ってもらいましたが、あなたの追分はすばらしい。どうでしょう、レコードに吹きこんでみませんか。」

 森鈴は自分の耳をうたがいましたが、目の前には会長の後藤桃水がいます。

「レコードで、秋田追分と鳥井森鈴を全国に売り出しましょう。」

 そういわれて、森鈴は「おねがいします。」

と桃水に頭を下げました。桃水と上京した森鈴は、「日畜レコード」で秋田追分をはじめて吹きこみました。

 その2年後の昭和3年(1928)、別のレコード会社から出した秋田追分のレコードが、ベストセラーになりました。29歳の森鈴は、民謡の全国的スターになったのです。

  その後の足あと
 

舞台姿(昭和41年) 昭和5年(1930)、それまで苦心してつくりあげた「秋田万歳」を森鈴は発表しました。 伝統芸能の秋田万歳をひとりで演じながら、その合い間にこっけいな話や身振りや民謡などを入れて楽しませるといものでした。ショーの形の、森鈴が考え出したこっけい芸は、たいへん人びとにうけ、人気はますます上がりました。秋田五郎に習った芸が生きたのでした。

 戦争中は、工場や鉱山などの慰問で、東北・北海道をまわりましたが、戦後の昭和22年(1947)からは一座をつくり、東北・北海道を巡業するようになりました。そうしたいそがしい中で、干拓が話題になりはじめた八郎潟を民謡にした「八郎節」を作詞、作曲しています。

民謡碑 昭和38年(1963)に64歳になった森鈴の民謡へつくしたことをたたえて、みんなで民謡碑を雀舘公園にたてましたが、八郎節はそれに刻まれています。

 いろいろな賞を森鈴は受けましたが、五城目町は功労者表彰、秋田県は文化功労章をおくって、功績をたたえています。満80歳になる10日前の昭和54年(1979)3月8日に亡くなりましたが、最後まで歌いつづけた人でした。

 秋田追分全国大会は、平成2年(1990)から開かれています。


参考資料 『ふるさとの唄』鳥井森鈴(昭和52年)

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