中 村 徳 也
短歌に生きる
  短歌にめざめる
 

自作の短冊 徳松の長男として、中村徳也は明治28年(1895)6月10日に生まれました。この年には、近代に入った日本がはじめて外国と戦った日清戦争が、勝利でおわっています。

 その次の年には、五城目町が発足しています。時代は間もなく20世紀に流れこもうとしている時期です。わが国の近代化も、もちろん五城目町の近代化も、はずみがつこうとしていたところでした。

 徳也も、そのような時代の空気をいっぱいに吸って、成長しました。10代の後半には、もう一人前の文学青年になっていました。

 43年(1910)五城目小学校高等科を徳也は卒業しましたが、上の学校にすすめるほどにはめぐまれてはいませんでした。出来る子どもだったので、父は徳也を秋田市の石田病院に住みこませました。彼は薬局生となって、まじめにつとめました。

 大正元年(1912)ころ、石田病院のとなりの病院に入院した館岡栗山のところへ、徳也は仕事がおわると毎日見舞いにいきました。ふたりの家は近所で、徳也は2歳年上でしたが仲のよい友だちでした。

 徳也はまだ二十(はたち)まえでしたが、「秋田魁新報」の歌壇らんに投稿した短歌が、しばしばとりあげられて、若手の歌人として名が知られるようになっていました。

 栗山は画家になろうという夢が大きくふくらんでいる時期で、俳句や短歌にも興味をもっていました。ふたりの話には花が咲いて、時を忘れてしまうほどでした。

  向 学 心
 

 上の学校にすすむ希望がかなえられませんでしたが、それだけに徳也の勉学の志は強いものがありました。

 薬剤師になるために、住みこみの薬局生をしながら熱心に薬学を勉強していました。しかし、将来薬店を五城目に帰って開業することを考えると、店の経営をするための勉強も必要になります。そこで、夜間の簿記学校に通うようにしました。

 文学青年の徳也は、もっと歌人としての力をのばしたいという気持ちが大きくなって来ました。少しの時間でも、徳也は近くの県立図書館にかけつけては、手当たり次第に歌集や歌論などを読み、短歌の勉強にも打ちこみました。

 夜間の学校があり、りっぱな図書館があり、近くに短歌に熱心な人びとが多いという秋田市での生活は、徳也の向学心と文芸への志を満足させるものでした。秋田市時代は、徳也の幸せな時代というべきでしょう。

 秋田市での生活は、大正8年(1919)までつづきます。このころは、正岡子規がはじめた短歌を革新する運動は、ようやく秋田の地にも受け入れられ、子規の『アララギ』につながる歌人が力を持つようになっていました。徳也はそのなかで、若い歌人として注目されるようになっていきました。

  五城目短歌会
 

 24歳で郷里に帰って来た徳也は、昭辰町の自分の家に薬店を開きました。

短歌のノート 彼はただの薬店の主人ではありませんでした。帰郷と同時に、短歌の仲間を集めて「五城目短歌会」をつくり、その指導者になったのです。この会は、いまもつづいています。

 近所の栗山は、さっそく徳也の弟子にされ、一枝という号を彼からもらいました。それに対して、俳句好きだった栗山は、北嶋南五の焼芋会に徳也をさそいました。

 南五の弟子になった徳也は、杏花(きょうか)の俳号で県内の中心的な俳誌『俳星』にも、句を送るようになりました。

 南五や栗山とのつき合いから、黛(まゆずみ)吟社をはじめた草皆五沼との交際にもひろがります。のちに、五沼は不治の病にかかった徳也の主治医として、治療に全力をつくしました。

  代表的歌人
 

 昭和に入ると、秋田県の歌壇は秋田市の大黒富治、能代地域の越後策三、南秋田郡の中村徳也の三大勢力が支えていて、それぞれが競い合っている、といわれるようになりました。

 ところが、大黒、越後、中村の3人は、『アララギ』に所属して活躍する仲のよい友人でした。3人の文芸上の競争は、秋田県歌壇をおおいにもりあげていたのです。

 徳也は策三の出している歌誌『あかね』の指導者となっていたほかに、『樹蔭』にも短歌を発表していました。東京で発行されている歌誌では『アララギ』のほか、『現実短歌』の中心的な同人として活躍して、高い評価をうけています。

短歌を発表した歌誌 ほかに『潮音』や『覇王樹』などにも、さかんに作品を発表しました。短歌に対する情熱と努力は、徳也を秋田の代表的な歌人に育てたのでした。

 昭和10年(1935)、徳也は短歌新聞の取次所を引きうけ、短歌文芸のニュースを送る通信員となりました。彼の文芸活動は、さらにひろがり、県内の歌人たちの訪れることも多くなりました。

 短歌の会合に出歩くこともしばしばでした。

 大正11年(1922)27歳で結婚しましたが、徳也の幸せな家庭生活と活発な文芸活動は長くはつづかなかったのです。昭和11年(1936)彼は不治の病で病床につくようになったからです。

 皮肉なことに、自分の店にある薬がきかない病気の自分を見つめて、徳也は病床日記を書き、おびただしい病中の短歌を残しました。どんな病気も、彼の文芸のはたらきを止められなかったのです。

 昭和14年(1939)10月28日、徳也は45歳で世を去りました。栗山の装丁で『中村徳也歌集』が39年(1964)に出版されています。


参考資料 『中村徳也歌集』(昭和39年 新星書房)

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