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木村謹治

木村謹治

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軍医で小説家の森鴎外が医学を学ぶためにドイツに留学をしたのは1884年(明治17年)のことでした。このころはまだ日本語をドイツ語に訳したりドイツ語を日本語に訳す辞書は日本に存在せず、二つの国を行き来する人はまず言葉の壁で苦労しなければなりませんでした。

本格的な和独辞典(日本語をドイツ語に訳す)の登場には、1937年(昭和12年)まで待たなければなりません。この日本初となる『和独大辞典』の編纂に取り組んだのが五城目出身で東京帝国大学ドイツ文学科の助教授(のちに教授)だった木村謹治です。

謹治の和独大辞典は、格調の高いドイツ語で用法や例文もていねいに紹介され、ドイツ本国でも高い評価を得ています。初版発行から70年以上を経た今でも、これ以上の和独辞典はないということで出版が続けられているほどです。

謹治は現在の五城目町大川で生まれました。木村家は学者を多く輩出する家柄で、謹治の他の兄弟も博士や大学教授になっています。

1909年(明治42年)に東京帝国大学文学部ドイツ文学科に入学すると、書店や古書店を巡ってはドイツ文学の原書を探しまわりました。

大学卒業後の1920年(大正9年)から2年半にわたって文部省在外研究員としてドイツに留学し、ベルリン大学でゲーテを中心にしたドイツ文学の研究に打ち込むことになります。

帰国後に4年の歳月を費やして和独大辞典を編み、さらに同僚の相良守峰と二人で編纂した『木村•相良 独和辞典』は、通称「キムラ・サガラ」の名で独和辞典の定番として今でも愛用している人が少なくありません。

みずから日本のゲーテ研究の第一人者として膨大な量の著作や訳書を行い、また、民間のゲーテ研究家であった粉川忠との偶然の出会いから、ゲーテの図書館をつくりたいという粉川の夢に無償の協力を申し出、東京ゲーテ会館の建設を後押ししました。