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館岡栗山

館岡栗山

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院展の通称で知られる日本美術院展覧会は、1898年(明治31年)創立の美術家の団体『日本美術院』が主催する日本で最も権威のある美術展の一つです。日本画家として大成しようとする者にとって、院展で入選したり同人作家になることは、画家としての大きな目標の一つにもなっています。

この院展で1933年(昭和8年)に初入選して以来、30回連続で入選を果たすという輝かしい記録を持っているのが、舘岡栗山です。

現在の五城目町高崎で生まれた栗山(本名 豊治)は、10代のころから独学で絵を描き始め、20代で上京してアルバイトで生活費を稼ぎながら絵の修行に励みました。更に研鑽を積むため京都に移り住み、日本美術院会員の近藤浩一路に師事します。その近藤の指導を受けて、36歳で院展初入選を果たしました。

美術院研究会員になった栗山は、研究会展出展作『雨後』で横山大観賞を授賞、その後も院展で入選を繰り返し、1968年(昭和43年)には無鑑査という待遇になりました。無鑑査とは、制作した日本画を無条件で院展に出品できることを言い、それだけ栗山の絵が高く評価されるようになったことを意味しています。

1945年(昭和20年)4月に郷里五城目に疎開し、翌年には現在の八郎潟町に移り住みました。ここが栗山の生涯のアトリエになりました。画家として名声を得たと言っても終戦直後は絵も売れず生活が苦しくなり、夫人が近隣の集落を回って栗山の絵と引き換えに食料を調達したこともあると言います。そのため、今でも秋田県内の古い家からは思いがけなく栗山の描いた絵が見つかることがあります。

1951年(昭和26年)には地域新聞「湖畔時報」を創刊し、画業のかたわら新聞社経営にも携わりました。俳句や短歌に親しむ文芸人でもあったので、同郷の文芸人、北嶋南五や草皆五沼、中村徳也などとも親交があり、晩年は五城目在住の民謡歌手鳥井森鈴とも親しい間柄でした。