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草皆五沼

草皆五沼

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昭和初期、大型バイクにまたがって五城目の山間地の医師のいない集落を積極的に往診に走り回っていたへき地医療の先駆者のような一人の医師がいました。

医師の名は草皆五沼。五沼とは俳号で、生家の周りに五つの沼があったことに由来しています。

革のジャンパーに飛行帽、ゴーグルでさっそうと大型バイクにまたがり山間地の悪路を駆け巡る五沼の姿に、大人たちは畏敬の念を持ち、子供たちは羨望のまなざしを送ったと言われています。

五沼は少年時代から俳句に親しんでいました。現在の能代市に生まれ、東京慈恵医学専門学校を出て五城目の草皆家に養子に入ります。しばらくは医業に専念していましたが、1924年(大正13年)に入隊した弘前市の第52連隊で石田三千丈と再会しました。能代市出身の三千丈は医学校の先輩にあたり、俳人でもありました。この三千丈との再会が、五沼の俳句熱を再燃させます。

翌年、五城目に戻ると、五沼は医業のかたわら、俳句結社「黛吟社」を興しました。「黛」の名は、師と仰いでいた同じ医家で俳人の石井露月が名付けたものです。

黛吟社には同じ時期の五城目の俳人であった北嶋南五も参加し、ともに会員の指導にあたりました。

「川下る 船は灯さず 冬の月」

五沼の生前に句集が編まれることはありませんでしたが、没後の1967年(昭和39年)に黛吟社の同人の手によって五沼が生涯に詠んだ俳句約3000句をおさめた遺作集『五沼句集』が出されました。