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大石孫右衛門

大石孫右衛門

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人の手によって改修される前の河川は、地形に沿って大きく蛇行していることが多いため、大雨が降ると川の流れの悪いところで水位が上がり、洪水になって田畑や人家を襲うこともしばしばあります。五城目町の東部を流れる富津内川も、江戸時代から明治時代にかけてはそんな暴れ川の一つでした。流域は毎年のように洪水に見舞われ、地域は深刻な被害を受けていました。

この富津内川の改修に私財を投じて取り組んだのが大石孫右衛門です。

孫右衛門は浅見内村(現在の内川浅見内)の松橋家に生まれ、幼名は得三郎と言いましたが、21歳で代々村の肝煎を務めていた大石家の養子になり、大石家の当主の孫右衛門の名を継いでみずからも肝煎になりました。

富津内川の改修は、肝煎になった孫右衛門が手がけた最大の事業で、幕末から明治初期まで10年あまりの歳月を費やす大工事なりました。この工事では、曲がりくねった富津内川の流れを直線化するのにあわせて、元の河川跡を利用して50haの新田開発も行っています。

この他にも、やはり私財を投じて900mあまりの新道をつくる工事も行っています。

これらの工事には貧しい人々にあたらせ、貧民を救済する目的も持たせていました。

孫右衛門は月斎(げっさい)という号を持つ俳人でもあり、当時の五城目周辺の俳句の指導者でもありました。住んでいた下山内村(現在の五城目町下山内)のはずれには、孫右衛門が建立した松尾芭蕉の句碑があります。

同時期の隣村の文人肝煎であった石井三友や、のちに「聖農」と称えられた石川理紀之助とも親交がありました。