町の概要
町の位置
本町は、秋田市の北方30キロメートル、能代市の南方30キロメートル、干拓による大潟村の東方に位置し、県都秋田市まで約40分の距離にある。
急峻な山岳地帯から肥沃な水田地帯まで変化に富んだ農業と林業の農山村であるとともに、中心部には約500年の伝統を誇る露天朝市が栄え、製材、家具、建具、打刃物、醸造業と商店街が発達し、湖東部における商工業都市を形成している。
役場の位置は、北緯39°56′、東経140°06′です。
急峻な山岳地帯から肥沃な水田地帯まで変化に富んだ農業と林業の農山村であるとともに、中心部には約500年の伝統を誇る露天朝市が栄え、製材、家具、建具、打刃物、醸造業と商店街が発達し、湖東部における商工業都市を形成している。
役場の位置は、北緯39°56′、東経140°06′です。
町名の由来と町の歴史
平安時代中期(930年頃)に源順 (みなもとのしたごう) が編集した辞書「和名類聚抄 (わみょうるいじゅしょう) 」の中に、最北の村として「率浦郷 (いさうらごう・いそうらごう) 」の名がある。率浦郷は、今の五城目付近と思われる。
この「率浦」 の名前がもとになったと思われる「五十目 (いそのめ) 」という地名は、鎌倉時代終期から使われるようになったと思われる。
16世紀終期(1590年頃)に築城されたと伝えられる五城目・砂沢城の城主の名前は藤原内記であるが、城のある土地の名前を名乗るのが当時のしきたりであり、文書には「五十目内記」と書かれている。
その頃の地名が「五十目」であることはほぼ確実と思われるが、読み方が「ごじゅうのめ」であったか、「いそのめ」であったかははっきりしない。
当時の城下は五十目上町村と五十目下町村の2つに分かれており、五十目村になるのは江戸時代初期である。
江戸時代には、中期から五十目と書いて「ごじゅうのめ」と呼ぶようになり、後期には好字を当てて「五城目」と書いたりする人もいたと言われている。
明治29年(1896年)1月18日、五十目村が「五城目町」となった。「ごじょうめまち」と読む。江戸時代の格好のいい表記を、町制を始めるに当たって採用したとのことである。
その後、昭和30年(1955年)3月31日、五城目町、馬場目村、富津内村、内川村、大川村の5つの町村が合併し、新しい町の名前を「五城目町」として現在に至っている。
この「率浦」 の名前がもとになったと思われる「五十目 (いそのめ) 」という地名は、鎌倉時代終期から使われるようになったと思われる。
16世紀終期(1590年頃)に築城されたと伝えられる五城目・砂沢城の城主の名前は藤原内記であるが、城のある土地の名前を名乗るのが当時のしきたりであり、文書には「五十目内記」と書かれている。
その頃の地名が「五十目」であることはほぼ確実と思われるが、読み方が「ごじゅうのめ」であったか、「いそのめ」であったかははっきりしない。
当時の城下は五十目上町村と五十目下町村の2つに分かれており、五十目村になるのは江戸時代初期である。
江戸時代には、中期から五十目と書いて「ごじゅうのめ」と呼ぶようになり、後期には好字を当てて「五城目」と書いたりする人もいたと言われている。
明治29年(1896年)1月18日、五十目村が「五城目町」となった。「ごじょうめまち」と読む。江戸時代の格好のいい表記を、町制を始めるに当たって採用したとのことである。
その後、昭和30年(1955年)3月31日、五城目町、馬場目村、富津内村、内川村、大川村の5つの町村が合併し、新しい町の名前を「五城目町」として現在に至っている。
町民憲章
わたくしたちは郷土を愛し五城目町民であることに誇りをもち、歴史と伝統をうけつぎ創造性ゆたかな町をつくる願いをこめてこの憲章を定めます。
1、自然と親しみ美しい町をつくります
1、たがいに助けあい思いやりのある町をつくります
1、教育を進め文化の香り高い町をつくります
1、元気で働き活力に満ちた町をつくります
1、きまりを守り明るい町をつくります
(昭和60年制定)
1、自然と親しみ美しい町をつくります
1、たがいに助けあい思いやりのある町をつくります
1、教育を進め文化の香り高い町をつくります
1、元気で働き活力に満ちた町をつくります
1、きまりを守り明るい町をつくります
(昭和60年制定)
町章
中世の頃にあった5つの城(浦城・岡本城・砂沢城・馬場目城・山内城)を目に配し、相互理解と前進を表現して図案化。
合併した五ヶ町村が共に大きく躍進しようとする姿も表現しています。
(昭和35年制定)
合併した五ヶ町村が共に大きく躍進しようとする姿も表現しています。
(昭和35年制定)
町の花・鳥・木
花 やまゆり
鳥 うぐいす
木 すぎ
(昭和60年10月20日制定)
鳥 うぐいす
木 すぎ
(昭和60年10月20日制定)