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近藤泰助

近藤泰助

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昭和初期の日本は世界的な不況の波に巻き込まれ、あわせて東北地方では米の不作もあって農民の生活の苦しさは極限に達していました。小作農は地主に小作料を納められないほど経済的に苦しんでいましたから、健康保険制度が整っていないその当時はケガをしたり病気になっても医療費が高額になって満足に医者にかかることもできません。

小作農から小作料を集められないと地主の生活にも影響が出てきます。

五城目の地主の家に生まれ、若くして家を継いでいた近藤泰助は、農民組合のリーダーをしていたことのあるいとこの畠山松治郎とも相談し、組合を作ってみんなで資金を出し合って、誰もが安く利用できる総合病院をつくるという考えにたどり着きます。

この構想が湖東病院、現在の湖東総合病院の開業として実を結ぶことになりました。

1932年(昭和7年)に医療組合設立の計画を立て、ただちに五城目や近隣町村の家庭に組合加入の勧誘を行ったところ、6割を超える世帯から加入の申し込みがありました。翌年には組合の設立が県知事から許可され、すぐに診療を開始しました。

組合長になった泰助は、資金不足を補うために自分の家や土地も組合に使わせました。

1940年(昭和15年)には組合を湖東医療購買利用組合連合会と改め、泰助は会長職に就きましたが、すぐに病院は火事に遭い、泰助の家もろとも焼失してしまいました。

一年後に病院は再建されましたが、そのために泰助は自分の土地屋敷をすべて提供し、自分は金足村(現在の秋田市金足)に移り住みました。1951年(昭和26年)まで病院の仕事に携わり、この間、町議会議員や町の助役も務めました。