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築地俊龍

築地俊龍

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戦前から戦後にかけて日本のプロ野球界で大活躍したスタルヒンという名のロシア人の投手がいます。スタルヒンは子供のころに家族と共にロシア帝国から日本に亡命してきており、北海道の旭川市で日本での生活を始めました。

少年時代のスタルヒンは、旭川の旧制中学校の野球部に所属し、剛速球投手として有名になっていました。その少年スタルヒンの噂を聞きつけてピッチングコーチを買って出たのが、社会人野球チーム「函館オーシャン倶楽部」に所属していた五城目出身の野球選手築地俊龍です。

スタルヒンがのちに日本のプロ野球を代表する名選手の一人になれたのは、俊龍の指導のおかげでもあったのかもしれません。

築地俊龍は現在の五城目町久保で生まれました。最初は龍夫という名前でしたが、家がお寺であったため、いずれはお寺を継がせたいという父の希望で、小学校を卒業するころに俊龍という名前に改名しました。

小さいころから体格と体力に恵まれ、とりわけ肩の力が強かったので、川原で石投げ遊びをしていると誰よりも遠くまで石を投げられたと言われています。

1918年(大正7年)に秋田中学校(現在の秋田高校)に入学すると、180cm近い立派な体格から多くの運動部に勧誘される中、野球部に入部しました。1922年(大正11年)には秋田中学校のエースピッチャーとして東北大会の5戦を一人で投げ抜いて同校を優勝に導き、現在の甲子園大会につながる全国中学校野球大会に出場を果たしました。(広島商業と戦って初戦敗退)

のちに俊龍は立教大学野球部の主力投手として活躍し、1927年(昭和2年)の東京六大学野球リーグでは同大に優勝をもたらしています。

大学卒業と同時に函館が本拠地の「函館オーシャン倶楽部」に所属し、名捕手として知られていた久慈次郎とバッテリーを組んで活躍しました。久慈も早稲田大学の野球部員として六大学野球で活躍した選手だったので、俊龍と久慈のバッテリーは大いに人気を博しました。

1930年(昭和5年)に引退し、永平寺での修行を経て1934年(昭和5年)には郷里に戻って生家である自性院(じしょういん)の住職になっています。のちには五城目町の助役や町議会議員も務めました。