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矢田津世子

矢田津世子

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秋田にゆかりの小説家で芥川賞受賞作家といえば石川達三があげられますが、長い芥川賞の歴史の中で、他にも芥川賞候補になった女流作家がいました。作品『神楽坂』が第3回の候補作に上がった五城目町出身の矢田津世子です。

惜しくも受賞は逃しているものの、選考委員として『神楽坂』を読んだ川端康成は「既に手腕確かな人」と津世子の作家としての力量を評しています。

津世子(本名 ツセ)は現在の五城目町下タ町で生まれました。父は秋田市の人でしたが、当時の五城目町長に請われて明治31年から町の助役に就任しており、一家で五城目に移り住んでいました。

津世子は幼いころから文学の素養があったようですが、その才能を見いだしたのは兄の不二郎だったと言われています。不二郎はのちに生命保険会社の社長になるなど実業の世界を歩みましたが、本来は自分でも文学の道を目指したいという思いがあったようで、その叶わぬ夢を津世子に託して陰日向になって応援していました。

父親の助役退任に伴って一家は秋田市に戻り、さらに東京に移り住みましたが、1923年(大正12年)の関東大震災で矢田家は焼失し、翌々年には父も亡くなるなどして、津世子は兄不二郎を頼って母親とともに名古屋に移り住みました。名古屋時代の1930年(昭和5年)に新潮社の『文学時代』の懸賞小説で入選した『罠を跳び越える女』が文壇デビュー作となっています。

兄の東京転勤に伴って一家は再び東京に戻り、津世子は亡くなるまでここで過ごしました。東京では林芙美子などの同時代の女流作家とも親交を深めています。

川端康成から女優になることを勧められたほどの美貌の持ち主であった津世子は、当時の人気作家であった坂口安吾との交際も始まって、公私ともにいよいよ円熟の時期にさしかかったかに見えましたが、このころから次第に健康が優れなくなっていきました。

創作活動は旺盛で、郷里秋田にゆかりのある人物や場面の登場する小説を次々に発表しています。『秋扇』(映画では『母と子』)と『家庭教師』の2作品は映画にもなりました。

しかし、まだまだ書き足りない思いを残しながら結核で36歳の若さで惜しまれて亡くなりました。