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四ツ車大八

四ツ車大八

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現在も歌舞伎などでひんぱんに演じられている『め組のけんか』は、江戸時代に実際にあった火消しと力士のけんか騒動が題材になっています。

文化2年(1805年)、江戸の芝神明宮境内で行われていた相撲の春場所を、火消し「め組」の辰五郎が知人の富士松らと“ただ見”をしようとしました。神明宮のあたりは「め組」が火消しを担当していた地域であったので辰五郎にはただ見の権利があったのですが、富士松はそうでなかったため入り口で口論になりました。通りがかった力士の九竜山が止めに入って辰五郎らは一旦は帰っていったものの、すぐにまた別の場所で九竜山と辰五郎ははち合わせになりけんかになってしまいました。騒ぎはおさまるどころか次第に大きくなっていって、ついに力士たちと火消したちの大げんかに発展してしまいました。

このときの騒動で先頭を切って火消したちと戦ったのが五城目出身の四ツ車大八(二代目)です。大八は力士としての一番上の位は前頭3枚目で、輝かしい成績は残せなかったものの、「め組のけんか」でたいへん有名になり、今でも歌舞伎の『め組のけんか』では主要な登場人物の一人になっています。

大八はこどもの頃から体格が立派で力もあったため、相撲の地方巡業で秋田を訪れた力士から勧められて江戸に上り、初代柏戸宗五郎(伊勢ノ海)の弟子になりました。文化6年の奥羽地方巡業中に37歳で亡くなりましたが、けんかのときに受けた傷の再発が原因だったとも言われています。

母親が地元の造り酒屋渡辺彦兵衛商店(現在の福禄寿酒造)で働いていたため、子供の頃の大八は酒屋の周りで遊んで過ごすことが多かったということで、その縁で同店では大八の化粧回しを長く所蔵していましたが、大正10年の火災で焼失してしまいました。また、同店では大八にちなんで「四つ車」や「大八」といった銘柄の酒や焼酎を出していたこともあります。

大八の本名は荒川永蔵と言いましたが、この荒川という姓は、五城目で旅人宿を営んでいた荒川家に娘婿として入ってからのものです。大八の死後、夫人は伊勢ノ海一門の行司式守家が引き取って亡くなるまで世話をしたと言われていますが、これも、式守二代目夫人がやはり同郷の五城目出身であった縁が大きかったためと考えられます。

東京都江東区の因速寺に夫人が建立した大八の墓があります。